53歳「絵の天才」と呼ばれる男がなお抱く渇望 やりたいことと適性の一致は幸運だった

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キャラクターデザイン、背景の原画、取扱説明書のイラスト、タイトルのロゴまで全部やらせてもらった。当時にしてはまとまったおカネが入ってきた。

「これはいける!! 一生食えるんじゃないか?って思ったよね」

ただ当時はゲームのイラストレーターの名前が前に出ることもなく、仕事が一気に増えるようなことはなかった。データイースト社からはたまにゲームのパッケージイラストをもらったり、神宮寺三郎シリーズの続編を担当したりした。

来た仕事は基本的には断らない

営業活動はしたことがなかったが、来た仕事は基本的には断らなかった。

「すぐに美味しい仕事がドンドン入ってきて寺田克也が確立される、なんてことはないだろうと思ってましたからね。若い頃だから、言ってもそんなに仕事は来なかったし。なんとか生活はできてたからOKでした。おカネに困ったときには西内さんや雨宮さん(雨宮慶太 有限会社クラウド代表 イラストレーター)の仕事を手伝って飯奢ってもらったり、誰かにたかったり。人の好意だけで生きてきた」

比較的楽観的な寺田さんだが、それでも仕事がなくなってしまうことについてはいつも考えているという。

「フリーになってからいつも俺の横には、ホームレスの俺が立ってますね。いつもホームレスになったときのことをシミュレーションしている。あそこのお店で廃棄食品をもらって食べて、あの通路で寝て、とかね。でもやっぱりそうなるのは嫌で、だからそうならないくらいの努力はしようって考えてます」

昨今、イラストや漫画をパソコン上で描き、デジタルデータで出版社などに入稿する作家が多くいるが、寺田克也さんはデジタルで商業作品を描いた先駆者の1人といわれている。

どのようなきっかけで、デジタル作品に向かったのだろうか?

「単純に、デジタルガジェットが好きだったから、というのがいちばんの理由ですよ。ウルトラセブン大好きなSF少年だったから、机の上にモニターがあるだけでワクワクしてしまう。実は今でも興奮してます(笑)」

寺田さんが25~26歳のころ、マッキントッシュのコンピュータで絵を描く環境が整いはじめた。母校である阿佐ヶ谷美術専門学校にもパソコンルームができることになった。たまたま同級生がパソコンルームの責任者になり、システムを構築することになった。夜中に遊びに行っていじらせてもらった。

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