日本の”ナンバーワン”弁護士は誰だ!?

知られざる”番号登録”の歴史

知られざる登録番号史

登録番号が弁護士の「命」も同然であるにもかかわらず、まもなく5万番台に突入しようとしている登録番号が、いつ頃から採番が始まり、栄えある1番は誰だったのかはほとんど知られていない。

数年前、筆者が弁護士を目指す人たちに向けて弁護士の業界研究本を執筆した際、この極めて素朴な疑問を解決しようと試みたのだが、解明するのは思いのほか大変だった。

とにかく知り合いの弁護士に聞いても誰も知らない。1980年発行の『東京弁護士会百年史』にも記載がなく、日弁連に聞いてもわからないと言われた。

国会図書館や東京都立図書館で弁護士名簿の閲覧請求をしてみても、戦前のものは何冊かあったが、いずれも番号の記載はなく、戦後のものは1964年以降しかなく、この1964年版には1番の人どころか、2ケタ台の人の掲載がほとんどなかった。

ヒントになったのは、弁護士法の解釈を解説した『条解弁護士法』の記載。戦後に日弁連が発足し、弁護士登録の管轄が旧司法省から日弁連に移った際、旧司法省から引き継いだ名簿は一部が空襲で焼失していたため、全国各地の弁護士会から寄せられた名簿と一致せず、名簿作成の作業は困難を極めたという。とにかく新しい番号をつけ、弁護士バッジの公布を開始したのは1949年9月だったらしい。かなりいろいろな文献を当たったが、筆者に発見できた登録番号に関する記載は唯一これだけだった。

採番し直しまでさせた? 登録番号へのこだわり

弁護士が自治権を獲得したのは戦後のことで、戦前は弁護士には自治権がなく、1893年(明治26年)に初めて旧々弁護士法が制定されてから、旧弁護士法が施行される1936年(昭和11年)まで、弁護士は各地の地裁登録で地裁の検事正の監督下にあった。このため、この時点では全国連番の採番はありようがない。

旧弁護士法の施行に伴い、登録は地裁から司法省へ移ったので、この時点で全国連番での採番が始まった可能性はあるのだが、この時代の採番に関する文献を見つけることはできなかった。

そこで、東京弁護士会・第二東京弁護士会合同図書館にお願いをし、戦後に発行された名簿の閲覧をお願いしたところ、快く応じていただけた。

戦後最初に発行された名簿は1951年版。このときは東京3会だけが、登録が古そうな人から順に番号がつけられているが、東京以外は一律、各地の弁護士会ごとに2000番台、3000番台といった番号がつけられている。1952年版も同様なのだが、1953年版になると、東京以外の弁護士にもケタが低い番号がつけられており、明らかに採番し直した形跡が見受けられる。

地方の弁護士から猛烈な抗議を受けてのことであるとしたら、登録番号に対する強いこだわりは、この時代にはすでに存在していたことになる。

ちなみに、1951年版、1952年版、それに採番のし直しがされた1953年版のいずれでも1番が付与されていたのは、東京弁護士会所属の津田義治弁護士だった。

ちなみにこの津田弁護士は、1999年に94歳で亡くなった、津田利治慶応義塾大学法学部名誉教授の父親である。

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