将軍・徳川家斉が「53人も子供を作った」ワケ 「男子26人、女子27人」はスゴすぎです…
徳川家斉が「生涯強壮を維持できた秘訣」のひとつが、「白牛酪(はくぎゅうらく)」です。
「白牛酪」は、牛乳と砂糖でつくられた「乳製食品」で、当時は滋養強壮のほか若返りに効果がある薬として珍重されました。
江戸幕府の開府後すぐに、里見氏の旧領安房国嶺岡(千葉県南房総市の一地区)を幕府直轄の牧場としました。8代将軍吉宗はこれを積極的に拡大して、在位中の1728年にインドから3頭の「白牛」が輸入されました。これが飼育され、つくられたのが「白牛酪」です。
「白牛酪」のつくり方は、熱した牛乳に砂糖を混ぜ、攪拌(かくはん)しながらさらに弱火で煮詰めて、固まり状になったところを型などに入れ、冷ましたら出来上がりです。味はミルク風味のキャラメルに近いそうです。
徳川家斉は、後に医師の桃井源寅(もものい みなもとのいん)に『白牛酪考』という本を書かせ、広く宣伝しますが、効果については本人が「実証済み」ですから、誰もその内容を疑うことはなかったでしょう。一般庶民にも販売されるようになりました。
家斉の娘のためにつくられた東大「赤門」
文政10(1827)年11月27日、家斉の21女・溶姫(ようひめ)は、第13代加賀藩主前田斉泰(なりやす)の正室として、15歳で江戸本郷にある加賀藩上屋敷に輿入れしました。
溶姫を迎え入れるにあたり、慣例により敷地内に別途、将軍の娘である彼女のための御殿が新築され、これにあわせてつくられたのが、現在「赤門」で知られる東京大学のシンボル「御守殿門(ごしゅでんもん)」です。
一般的に、赤門は「加賀前田屋敷の表門」と誤解されることが多いですが、正しくは「前田屋敷溶姫御殿の表門」です。
日本の歴史には、現代人も驚くような「ユニークな人物」がたびたび登場します。
ぜひ、日本史を学び直し、社会人に必要な「知識と教養」を身に付けると同時に、「人間を知る契機」にしてください。歴史を知ることは「人を知る」ことにほかならないからです。
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