北朝鮮の核開発は「戦艦大和」建造に似ている 戦前の日本を考えると経済制裁強化は不安だ

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三田:ほう! それは、それは誰ですか?

山本:近衛文麿です。

三田:えー!? 近衛文麿は3度にわたって総理大臣を務めており、日中戦争と太平洋戦争へと傾斜していく日本の国策のキーマンですよね。1937(昭和12)年の第1次近衛内閣時に日中戦争が勃発し、翌1938年正月に、「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の有名な声明を発表し、日中講和は絶望的となりました。このことから戦前の首相中、近衛文麿は、東条英機に次いで評判が悪いですよね。

近衛文麿がやったこと、やらなかったこと

山本 一生(やまもと いっしょう)/1948年生まれ。東京大学文学部国史学科卒。石油精製会社勤務の傍ら競馬の歴史や血統に関するエッセーを発表。1997年にフリーになると近代史に転じ、恩師である伊藤隆東大名誉教授の下で『有馬頼寧日記』の編集に加わり、その後は「日記読み」として戦間期の日記を基に時代を読み解く作業を行っている。『恋と伯爵と大正デモクラシー:有馬頼寧日記1919』(日本経済新聞出版社)で第56回日本エッセイスト・クラブ賞受賞(撮影:梅谷 秀司)

山本:1940(昭和15)年に第2次近衛内閣のときに、日独伊三国軍事同盟を締結、北部仏印(フランス領インドシナ:ベトナム)への進駐が行われ、日米対決は不可避の状況に陥ります。

三田:この仏印進駐は、連合国の中国支援路、いわゆる援蔣ルートを断って、中国の戦争継続能力を奪うことが目的ですね。

山本:翌1941年、第3次近衛内閣(改造内閣)が誕生します。そして南部仏印進駐が行われ、これに対し、アメリカは対日石油全面輸出禁止という究極の経済制裁で対抗します。

三田:戦後、太平洋戦争で米海軍作戦部長を務めたハロルド・スターク海軍大将は、こう語っています。「石油禁輸の後は、日本はどこかへ進出して石油を取得するほかなかったのであり、自分が日本人だったとしてもそうしたであろう」と。今までのお話からすると、近衛文麿が太平洋戦争の原因を作ったとは言えても、これを防ぐことなど、とうてい不可能のように思えますが……。

山本:「天皇の大権」として明治憲法に記された「統帥権」を軍部が振り回して、大陸での戦争を勝手に拡大します。近衛さんに同情するわけではありませんが、閣僚人事でも陸海軍の顔色をうかがうばかりで、総理大臣は軍事に関与できない状況にありました。

第1次近衛内閣発足の1カ月後に盧溝橋事件が起きて支那事変が始まりますが、近衛は、はなから蚊帳の外におかれて戦線は一方的に拡大していきます。近衛は、「ただ空漠たる声望だけあって力のない自分のようなものが何時までも時局を担当するということは、甚だ困難なことでございます」「どうも、まるで自分のような者はまるでマネキンガールみたようなもので、(軍部から)何も知らされないで引っ張って行かれるんでございますから、どうも困ったもんで、誠に申し訳ない次第でございます」と天皇に申し開きしています。

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