北朝鮮の核開発は「戦艦大和」建造に似ている 戦前の日本を考えると経済制裁強化は不安だ
三田:山本五十六とともに、「海軍省左派トリオ」と称された対米英協調派の井上成美・海軍大将(トリオのもう一人は敗戦時の海相を務めた米内光政・海軍大将)は近衛を、こう評しています。「近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っ込んでしまう。
相手と相手を嚙み合せておいて、自分の責任を回避する。三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍にNOと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押し付けられると考えていた。開戦の責任問題で、人がつねに挙げるのは東條の名であり、無論それには違いはないが、順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種を播いたのは、みな近衛公であった」と。
「決められるリーダー」が戦争を始める?
山本:三田さんがおっしゃるように、なにかと評判の悪い近衛ですが、「すぐ自分はすねて引っ込んでしまう」、実はここがポイントです。家柄もいいし見栄えがよくて当時の国民から圧倒的に人気があった近衛は、実は、「決められない」リーダーだった。
第3次近衛内閣が総辞職するのは1941(昭和16)年10月18日、そして東条英機内閣が組閣され、太平洋戦争に突入するのですが、もし近衛文麿が、政権を投げ出さす、グズグズすねて首相をしていたら、いたずらに時間を浪費して、結果、日本が望みを託していたナチス・ドイツが独ソ戦で苦戦を強いられている、との情報が伝わり、対米開戦は不可能との結論に達したかもしれない。史実は、能吏の東条がテキパキことを進めて開戦に至るのですが。
12月5日、対米開戦の3日前、ナチス・ドイツはモスクワの23キロメートルまで迫りましたが、そこから赤軍の大反撃が始まります。ナチス・ドイツが、英国本土上陸、次いでソ連邦首都モスクワ攻略の両方に失敗します。ドイツに参戦しても大戦の見通しは暗い、ここは臥薪嘗胆すべき時……となれば、対米開戦は避けられたかも。しばしば「決められる政治」ということがいわれますが、時には「決められない政治」が有効な場合もあるということでしょう。
三田:うーん、どうでしょう。米国務長官コーデル・ハルが突き付けたハルノート(1941年11月26日アメリカ提案)を見ると、それも難しいような気がします。
戦って得た中国利権の放棄、三国同盟など外交関係の破棄など、平和主義者で日米開戦回避に全力を傾けたときの外務大臣・東郷茂徳もハルノートを見て、「これは日本への自殺の要求に等しい」「目が眩(くら)むばかりの衝撃に打たれた」と心境を吐露しています。日中戦争で南京攻略後の講和交渉で、日本側が過大な要求を突き付けたとき、蔣介石は日記に、こう記しています。「日本側の提出した条件は我が国を征服し滅亡させるに等しい。屈服して滅ぶより、闘って滅ぶ方がましである」。西洋人は負けるとわかったとき、降伏しますが、東洋人は、それでも戦う道を選ぶ気がします。だから太平洋戦争も戦った。