自殺は複合的な事情や背景が絡み合って発生しているものであると同時に、社会構造上の問題としてとらえるべきです。「男は仕事や生活苦で自殺してしまう」などと解釈するのは早計でしょう。
フランスの社会学者エミール・デュルケームは、1897年に発表した『自殺論』の中で、「自殺の恒定性」に着目しています。つまり、多少の変動はあれ、毎年のように同程度の自殺者が発生するというのです。自殺してしまった人は翌年いないにもかかわらず、測ったように一定数の自殺者が新たに発生するというのは、よく考えると不思議な話です。これこそが、自殺が個々人の動機や性格によって引き起こされるのではなく、社会環境の産物であることを示唆しています。不景気や失業者増という単発的要因より、もっと恒常的で本質的な環境要因を忘れてはいけません。
40男は「男らしさ」の規範に殺されている
男たちの意識や行動を無意識のうちに規定してしまっている外的環境圧力とは何か? それは、社会規範ではないかと私は考えます。規範とは社会における常識であり、ルールです。前回「独身を追い詰める『悪意なき結婚圧力』の正体」に書いた「結婚するべき」という結婚規範もその一種ですが、「男は男らしくあるべし」という性別規範もあります。そして、この「男らしさ」の規範こそ、無意識のうちに男たちを自殺へのプロセスに導いていたのではないかと思わざるをえないのです。
「男は働くべき」「男は稼ぐべき」「男は家族を養うべき」そして「男は我慢すべき」……。
苦しいこと、言いたいこと、不満……。それらをこらえていくのが男の修行である」とは、戦前の軍人山本五十六の言葉ですが、それは、男の美学として承認されてきたことでした。しかし、皮肉にも、そんなあるべき男の姿という幻想によって、男は自殺へと導かれているのではないでしょうか。
そして、意外かもしれませんが、独身男性のほうがこの「男らしさ」規範に縛られていて、既婚男性の1.3倍多く存在します(2015年「ソロ男プロジェクト」調べ N=626)。
「働くべき」男が、何らかの理由で働けなくなることも、「養うべき」男が、何らかの理由で(負債を抱えずとも)カネを稼げないことも、男にとっては男であることの規範からの逸脱であり、男としてのアイデンティティの剝奪を意味します。「うつ病」になる要因も、仕事上において「あるべき男」になれなかったことに起因するのかもしれません。自殺してしまった男たちは、ギリギリまで追い込まれて、心が傷だらけになっても、弱音を吐かず、最期まで必死で生きようとしていた、むしろ、誰よりも生きることに対してまじめでひたむきだったのではないでしょうか。
男らしさの規範とは、男はこうあるべき、というアイデンティティの押し付けです。統一的な集団として安定が保証されていた時代はそれでよかったでしょう。しかし、現代の液状化する不安定な社会の中で、マジョリティのレールからはみ出した者を、こうした規範こそが自己責任の名の下に切り捨ててしまってはいないでしょうか。彼らの声を遮断し、苦しむ姿さえ透明化してはいないでしょうか。
これらは決して個人の内面の問題ではないのです。「男も弱音を吐いていい」という言い方では解決しません。弱音を吐くことすら許されないという規範からの解放が先決です。
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