悪さ重ねた少年が40代で達した質実な稼ぎ方 カンボジアで起業、コアな電子書籍をつくる

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「医者からは『完治することはない』と言われました。ですが、プノンペンで暮らすようになったらピタッと症状が治まったんですよ。ストレスが原因だったんじゃないかと思っています。そうとしか考えられない」

小学生の頃から周りに合わわせたり気を使ったりする学校での人間関係が苦手で、ため込んだものがすべて腹部に集まったのかもしれない。95キログラムあった体重は49キログラムまで落ちた。体調不良に悩まされ、高校受験も失敗。1年後に入学した高校も行ったり行かなかったりしているうちにまた倒れた。

暇潰しに読んだガイドブックでアジアに興味を持ち…

1993年、香港で倒産したまま5年放置されていたショップの商品を店ごと買う(写真:クーロン黒沢)

アジアに目が向いたのはこの頃だ。入院中、暇潰しに読んだガイドブックでアジアに興味を持つようになり、退院後はバックパッカー的な海外旅行を始めた。これが奏功し、次第に日常生活に気力が戻るようになっていったという。そうこうするうち、起業した同い年の友人を手伝うようになる。香港を中心に海外からマジコン(ゲームソフトをコピーしたり、コピーソフトを起動させたりする機械)を調達して国内で売るというグレーなビジネスだ。

1993年、台北のマジコンショップ(写真:クーロン黒沢)

昼間は家電量販店でアルバイトして、夕方にオフィスに出向いてマジコンを売り、夜にはコンピュータ関連の同人誌を作るべく知恵を絞る日々。体調が許すかぎり忙しくしていたが、意外にもおカネを稼ぎたいという意識はあまりなかったという。

「クラブ活動みたいな感じで、どれも遊び感覚でした」

同人誌を読んだ編集者から声をかけられて単行本を作ったのを契機に、ライターとして複数のパソコン雑誌に寄稿するようにもなった。20代前半。複数の雑誌を股にかけるようになって忙しさに拍車がかかったが、それでもストレスは中学や高校に通っているときと比べものにならないくらい小さくなっていた。

生活拠点を東京からプノンペンに移したのは外的な要因が大きい。

「いろいろあって弁護士に相談したら、直接的ではないですけど、日本から離れたほうがいいよというようなことを言われたんですよ」

グレーなビジネスはやはり長くは続かず、企業から訴訟される気配が濃くなってきた。たたけば多少のホコリが出る身であることも自覚している。ならば高飛びしようと、割とすんなり決意した。

プノンペンを選んだのは、ビジネスの一環で東南アジアを回った際、拠点として借りていたアパートがあったためだ。そのときに家庭教師をつけてカンボジア語を日常会話レベルでマスターしていたことも無関係ではないだろうが、とにかく雨風防げる場所があればいい。それくらいの気持ちだったという。

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