手持ちはおよそ30万円。心許ないが、当時のプノンペンなら月に500ドルもあれば食べていけることを知っていた。また、付き合いのあった編集者にはパソコン通信を通して原稿を納品する手段を伝えてもいた。
「月に5本も原稿を書けばなんとかなると思っていました」
短絡的かもしれないし、用意周到かもしれない。とにかく1997年の春に機上の人となった。
再び戦火に襲われたプノンペン
しかし、当時のプノンペンは政情が非常に不安定だった。1978年に没落したポル・ポト率いるクメール・ルージュの爪痕がまだ大きく残るなか、1997年7月、ノロドム・ラナリット第1首相の外遊中に第2首相のフン・センが武力クーデターを起こし、プノンペンは再び戦火に襲われることになる。
黒沢さんはゲストハウス4階にある自部屋の窓からそれを見ていた。出国からしばらくはドラッグにハマり連日夢うつつになりながら過ごしていたが、それでもこのときの情景は脳裏にこびりついた。
「軍の弾薬庫が爆破されたみたいで、ものすごい音がしたあとに、空の半分くらいが真っ黒になりました。周りに低層の建物しかなくて、黒煙の迫力に圧倒されました」
あちこちで銃声が響き、通りを見下ろせば戦車が走っている。不安になって階下の大家さんを訪ねるとすでに避難した後だった。近所の商店もどこももぬけの殻で、クーデターは空港から始まったため飛行機が飛ぶことも望めない。
「軍が住民を攻撃するということはなかったですが、北部に敗走したラナリット軍が反撃に出るといううわさが流れていて、街がパニックになっていたんですよ。そうなるともう何が起きるかわからない。さすがに怖かったですね」
内戦の危機が過ぎ去るとようやく平穏な生活を送れるようになった。とはいえ警察がほとんど機能せず、強盗がそこら中にいる状況だ。暗くなるとあちこちで銃声が響いて鳴りやまないことにも慣れるしかなかった。クメール・ルージュによる大量虐殺の結果、街で老人の姿をとんと見掛けないことも同じく。電気は外国から買っているため高く、あらゆる物資も足りてない。
スーパーに並ぶ缶詰は賞味期限を4年過ぎていて、近所のレストランはほとんどの食材が腐っている状態。食中毒は日常茶飯事だった。ゲストハウスで暮らす外国人たちの間で「今日は何が食える?」と情報交換したうえで、どうにか栄養になるメニューにありつけるという具合だ。
だから、クルマで18時間かけてでも隣国のタイへ定期的に買い出しに出掛ける必要があった。
「とにかくカンボジアのなかには何もなかったので、食材も本も買い込みましたね。納豆とか日本の雑誌とか、当時からタイには何でもありましたから」
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