日野原氏は理想のために笹川マネーも使った 105年の人生で残した多大な功績を振り返る
飲みたいだけ飲み、食べたいだけ食べて、病気になったら医者に行く。昭和の時代の日本人はだいたい、そんな生活を送っていたが、今では健康は自分で管理するのが当たり前。多くの人々がダイエット、マラソン、ヨガに精を出す。これも日野原氏による意識改革の成せる技だろう。
「後期高齢者」という言葉が嫌いだった。「役人が年齢で国民を区別するなど、失礼千万」というわけだ。その代わりに作ったスローガンが「75歳からは新老人」。前人未到の超高齢化社会の先頭を走るのは「我々、新老人である」と胸を張った。
終末医療にも力を入れた。
「死が患者さんの人生のクライマックス。有終の美を飾ってもらうのが医者の仕事」
過度の延命治療に対しては「医者の金儲け。チューブにつながれ、家族と別れの言葉もかわせない患者に尊厳はあるか」と手厳しかった。
スケジュール帳は3年先まで埋まっていた
偉大な理想を掲げ、無類の実践家でもあった日野原氏は、105年の人生を最後まで全力で駆け抜けた。スケジュール帳は、常に3年先まで講演の予定で埋まっていたという。
「次の東京オリンピックの時に『新老人の会』でイベントを開催し、日本の新老人の力を世界の人々にアピールしたい」と張り切っていた。
「疲れたなどと言っている暇はないのです」
片時も休むことなく、理想とする医療と社会の実現に邁進した。1世紀余りの見事な生涯である。
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