築地でしか味わえない「ごちそう」アジフライ 元祖「築地のおいしいもの」は西洋料理だった
小池百合子新知事が就任し、移転問題に絡んでクローズアップされる機会が増えた築地ですが、地元である東京の人であっても、築地がなぜ築地という地名なのか、その理由を知る人は少数派です。また明治時代、築地は東京で最も国際色豊かな、モダンでハイカラな街だったと聞くと、多くの人が意外な気持ちを抱くのではないでしょうか。
このように、築地の街の成り立ちについては、ほとんど知られていないのが実態だと思います。そこで、今回は築地の街の歴史的な成り立ちを紐解きながら、築地がいつからおいしいものの街になったのかをご紹介していきましょう。
「築かれた土地」だから、築地
今から約360年前、江戸の町は明暦の大火と呼ばれる大火事に見舞われ、市中の3分の2が焼け野原と化してしまいました。現在の浅草橋の近く、横山町にあった京都西本願寺の別院(現在の築地本願寺の前身)も、この大火により焼失してしまいます。そこで、再建を試みるのですが、もとあった場所での再建は幕府に許可されず、代わりに八丁堀の海を埋め立てるよう指示されます。
そのような経緯を経て築き上げられた土地、「築地」に本願寺の仮本堂が建てられたのが、延宝7年(1679年)のこと。築地の街はこうして始まりました。築地とは「築」かれた土「地」、つまりは埋めたて地を表す地名だったのです。ちなみに、場内市場の海幸門のたもとにある波除稲荷神社も、同じ時期に創建されました。実はこの神社の創建は、築地地区の埋め立て工事と深いつながりがあります。
明暦の大火の後の埋め立て工事は、難航を極め、堤防を築いても幾度となく波にさらわれてしまっていました。人々が困り果てていたある日のこと、水面に光を放って漂うものが見つかります。不思議に思って引き揚げてみると、それは立派な稲荷大神の御神体でした。そこで、社殿を作りお祀りをしたところ、波風がぴたりと止み、無事埋め立て工事も完了したと言い伝えられています。これが波除稲荷神社の始まりで、以来、築地の街の発展を見守り続けているのです。
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