築地でしか味わえない「ごちそう」アジフライ 元祖「築地のおいしいもの」は西洋料理だった
明暦の大火の後の埋め立てで土地が築かれると、築地地区および隣の明石町の周辺には、諸大名の藩邸や幕臣の屋敷が次々と建てられ、明治維新まで、この一帯は大名屋敷街の趣を呈していました。その中には、忠臣蔵でおなじみの浅野内匠頭の播磨赤穂藩浅野家の上屋敷が、今の聖路加病院の辺り一帯、8900坪に渡って広がっていました。しかし、ご存じのとおり、吉良上野介との一件でお家断絶となってしまい、広大なお屋敷も取り上げられてしまい、いまでは小さな案内板が歴史の事実を伝えるのみとなっています。
またこの大名屋敷街の中にあった豊前中津藩邸では、安永3年(1774年)に藩医・前野良沢が杉田玄白と共に、オランダの解剖書の翻訳「解体新書」を完成させています。また、それより80年あまり後の安政5年(1858年)には、同じ中津藩の福沢諭吉が、後の慶應義塾大学の母体となる蘭学塾を開いたのも、同じ屋敷の中の長屋でした。
東京で最も異国情緒あふれる街だった
幕末になると、幕府は現在の築地6丁目にあたる隅田川の一角に、旗本や御家人を対象とした軍艦操練所を開設します。その後明治維新を経て、操練所の跡地は海軍省の管轄となり、海軍操練所(海軍兵学校の前身)が設置されたのをはじめ、築地周辺には数多くの海軍施設が作られました。
海軍の施設が続々と作られたのと相前後して、築地の隣町、明石町には外国人居留地が設けられました。外国人居留地に指定されたのは、もともとは明石町だけだったのですが、旧住民の立ち退きが遅れるなど造成に時間がかかったため、結局は当時南小田原町と呼ばれていた現在の築地6・7丁目と、明石町の北側の湊町や入船町も外国人に開放されることになり、このあたり一帯が外国人居留区として認知されることになりました。
外国人居留区には、9カ国の外国公使館と領事館が設置され、さらには現在の税関にあたる運上所も開かれ、海外からの人と情報の入り口として機能することになりました。こうして、明治維新直後から、築地界隈は東京で最も外国に近い、異国情緒あふれる街になっていったのです。
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