そごうに君臨したデパート王の栄枯盛衰 そごう元会長 水島廣雄氏を悼む
かつての日本一の百貨店、そごうの元会長・水島廣雄が今年7月末に死去した。その独特の経営手法から「怪物」とも呼ばれた水島。いったいどんな人物だったのか。
1957年に発表された歌謡曲「有楽町で逢いましょう」。歌手・フランク永井の独特の低音も評判となり、昭和を代表するヒット曲となった。
シニア世代にはよく知られた話なのかもしれない。「有楽町で逢いましょう」のヒットの裏には、百貨店・そごうが深く関わっている。その当時、関西を地盤する小さな百貨店にすぎなかったが、会社の飛躍へ大きな賭けに出る。東京進出である。
関西から東京・有楽町へ進出
場所は有楽町。東京進出を盛り上げるための仕掛けが必要で、それが日本テレビに提供したミュージカル番組「有楽町で逢いましょう」であった。番組は大きな評判となり、のちに同名の小説や楽曲も生まれる。フランク永井の楽曲は東京店のイメージソングに使われることになる。
「有楽町で逢いましょう」が日本人の誰もが知る流行歌になった頃、そごうにはもう一つの大きな歴史が生まれようとしていた。のちに「怪物」とも言われる水島廣雄の入社である。
帝国大学出身者が幅をきかす、エリート集団の旧日本興業銀行において、私学出身の水島は苦悩の日々を過ごしてきた。人生をリセットするにはどうしたら良いのか。親戚筋がオーナーであった関西の百貨店・そごうに転職することにしたのである。これが怪物経営者の始まりとなる。
そごう副社長に就任すると、さっそく東京店が入居するビルオーナーとの家賃引き下げ交渉に臨む。相手はただ者ではない。オーナーは読売新聞。その社主は「元祖怪物」とも言われる正力松太郎であった。
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