19歳でプロ野球選手に嫁いだ妻の波瀾曲折 巨人のスター「松本匡史」をいかに支えたか

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野球生命を懸けた手術は6時間にも及んだが、無事に手術は成功した。一方で、肩に移植する骨を腰から取ったため、下半身にもダメージが残り、リハビリが必要になった。

それは地道な歩行訓練から始まった。由佳さんは短大の授業が終わると、真っ先に病院に駆け付け、匡史さんの身の回りの世話や苦しいリハビリの補助まで懸命にサポートした。そして退院の日、2人の運命は決定づけられる。匡史さんは由佳さんを抱きしめ、「何が何でもレギュラーを取ってみせる。だから結婚してほしい」とプロポーズしたのだ。当時の由佳さんは19歳で結婚を決意した。

だが、結婚式を目前に、大きな試練が待ち受けていた。1979年に巨人は、5位に低迷。そのオフ、長嶋監督は未来を担う若手を集め、今も伝説として語り継がれる「地獄の伊東キャンプ」を決行する。メンバーは江川卓選手や中畑清選手など総勢18人。その中で、最も厳しく鍛えられたのが匡史さんだった。

長嶋監督は、匡史さんの武器である足の速さを活かすため、本来、右打ちだった匡史さんを左でも打てるスイッチヒッターに改造する。早朝から深夜まで自ら特訓した。

地獄のキャンプを乗り越えて、匡史さんは、由佳さんと結婚式を挙げた。長嶋監督も駆け付け、お祝いに歌を披露してくれた。

新婚旅行が「鶴の一声」で取りやめに

そして結婚式を終え、オフに新婚旅行に行く報告のため、新婚夫婦は長嶋監督の下を訪れた。そこで長島監督は匡史さんにある言葉を告げる。

「今のお前は旅行している場合か? 人が休んでいるときこそ練習する。そうでなければレギュラーを奪うことはできないぞ」(長嶋監督)

その言葉に、夫は即座に旅行を取りやめて練習することを宣言。なんと、監督の一言で、新婚旅行は中止になった。一方、新婚旅行を楽しみにしていた由佳さんはショックを受けるが、それは同時にそれまでぼんやりしていた「プロ野球選手の妻になったという覚悟」がはっきりと芽生えた瞬間でもあった。

匡史さんは、長嶋監督に言われたとおり、練習漬けの日々を送っていた。そんなある日のこと、「夫から練習を手伝ってほしい」と練習に付き合うことに。新婚旅行を取りやめて練習に励む新婚夫婦の様子が、当時のスポーツ新聞に大きく取り上げられた。

ところが、この記事が、思わぬバッシングを招く。

「神聖な野球場に、女性を入れるとは何事だ!」

「嫁と、チャラチャラ練習するな!」

そんな声が周囲から、漏れ伝わってきた。それでも由佳さんは、周囲の雑音に耐え、毎日、必死に練習を手伝った。

そして1980年、匡史さんの背番号は、23から2に変更され、開幕1軍をつかむ。格段に出場機会も増えた。

長嶋監督に人生を導かれた夫婦にとって、新たなスタートの年になったものの、その年のオフ、長嶋監督が成績不振を理由に、突然の辞任を発表する。それは事実上の解任、日本中が大騒動となった。

さらなる飛躍を誓っていた匡史さんは恩人の突然の辞任に、込み上げる悔しさを抑えられなかった。それをバネに匡史さんは、スター選手へと駆け上がり、不動の1番バッターの座を獲得する。その後は、セ・リーグ盗塁王のタイトルのほか、シーズン76盗塁(1983年)という、いまだに破られないセ・リーグ記録を残した。

くしくも匡史さんが輝き始めたのは、恩人・長嶋監督が解任された後だった。夫婦で誓った「長嶋さんのために活躍し続け、恩返しする」という思いを胸に、夫婦二人三脚で上り詰めた。

ところが、夫が輝いた時間は長くは続かなかった。プロ11年目、匡史さんは、極度の打撃不振に苦しむ。シーズン終了後、戦力外通告を受けた。わずか1年の不振でクビを告げられるとは。マスコミも、驚きを隠せなかった。匡史さんにとっても、それは寝耳に水の出来事だった。

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