19歳でプロ野球選手に嫁いだ妻の波瀾曲折 巨人のスター「松本匡史」をいかに支えたか
今の40代以上の野球好きなら、松本匡史(まつもと・ただし)という名前を知っている人は少なくないだろう。プロ野球のテレビ中継の視聴率が、連日20%を超え、絶大な人気を誇っていた1970~1980年代に、読売ジャイアンツ(以下、巨人)の不動の1番バッターとして活躍し、セ・リーグの盗塁記録(1983年、76盗塁)を樹立。当時監督だった長嶋茂雄氏により、巨人のスターへと育てられた選手だ。トレードマークの青い手袋から「青い稲妻」と呼ばれていた。
入団当初、松本匡史は無名の選手だった
入団当初の匡史さんはプロ野球では無名ともいえる選手だった。早稲田大学4年生のとき、東京六大学リーグの盗塁記録を塗り替えるなど、大学野球のスター選手だった一方で、プロでやっていく自信がなく、当初は社会人野球に進むつもりだった。
運命を変えたのは、当時の巨人で監督を務めていた長嶋茂雄さん。「どうしても欲しい」という強い希望からドラフト会議で、強行指名。自らが匡史さんの下へと交渉にやってく来るぐらいの熱意を見せた。長嶋さんの真っすぐな言動が心を揺さぶり、匡史さんはプロ野球の世界に入ることを決意する。
そんな匡史さんと19歳の若さで結婚し、無名時代から支え続けた妻が由佳さんだ。
匡史さんの入団2年目。2人は出会う。由佳さんは、お嬢様学校として名高い中高一貫女子校の白百合学園(東京都千代田区)を経て、短大へ進学。その短大生になったばかりの時期に友人の誘いで、巨人の若手選手が集まる食事会に参加した。その中にいたのが匡史さんだった。
プロ野球が絶大な人気を誇っていた時代で、友人たちが高揚する中、由佳さんは野球にはまったく興味がなく乗り気ではなかったが、匡史さんは由佳さんに一目ぼれした。翌日から匡史さんからの猛アタックが始まった。
まずは、自宅へ電話。電話に出た由佳さんが用件を聞くと、「元気かなと思って」。実は、このとき、由佳さんに告白するつもりで電話していたというが、匡史さんは緊張してしまい、言葉が出てこなかった。その後も「付き合ってほしい」の一言が、どうしても言い出せないまま、毎日、由佳さんに電話をかけ続けた。
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