「水どう」嬉野D、7年の鬱で悟った人生哲学 楽しく生きる極意は「他人に負けてもいい」
10日で撮れる根拠を思いつきもしないまま、それでも強く抗おうとしなかった理由は、ただただできるかどうか、わからなかったのだろうなと思うのです。わかっていない自分にも気づけず、それでも押し切られて相手の主張に乗るほうが楽だと、無意識に判断した。結局、それが自分の考えを失う瞬間でした。撮影がはじまる前に、すでに私は失敗していたのです。
上司の「お前の仕事だろう!」を鵜呑みにするな
現場はボロボロでした。連日の撮り残し、押し押しのスケジュール。誰の目から見ても大失敗でした。あのときの監督やスタッフやキャストには、本当に申し訳のないことをしてしまったなぁと、いまは、思います。でも当時は、そうは思えなかった。それどころか「10日でやれと言ったのは誰だよ!」と、心の中でずっと毒づいていたのです。他人に判断を委ね、すべてに「オレだけのせいじゃない」というスタンスで向き合っていた私は、自分で判断することを放棄していた。それが、あの仕事における決定的な私の失敗の本質でした。それはもう仕事とは呼べないのです。
仕事の本質がなんであるかなんて、もうずいぶん前から誰も教えてくれなくなったのだと思います。でも、それでも、はじめての仕事をするときには、「いったいこれは、本質的にはどういった仕事なんだろう」と、自分でまず考えなければならない。そうして銘々で銘々の答えにたどり着けばいい。それをせずに「言われた仕事」をこなし続ければ、知らないうちに自分の頭で考えることを放棄し、自らの判断で大局を見ることをあきらめる。失敗しても必ず他人のせいにしてしまうのです。
最初にプロデューサーに怒鳴られたとき、私には言うべきことがあったのです。「それは違う。少なくともオレを雇うのなら現場は20日かかる。どうしても10日でやりたいなら、別の経験豊富な人に頼んでもらうしかない。10日でやれるかもしれない。でも、オレがやるなら20日かかる。その代わり、絶対20日で撮りあげる」と。
人生はイニシアチブを取らないと、自分で主導権を取らないと、いつか、生きていることが苦しくなる。だから自分の頭で考えることをやめてはいけないはずです。
おそらく、あのときの大失敗の中から私の人生はスタートしたのでしょうね。あの大失敗の経験から私の中の何かがはじまって、私のいまはあるのだろうなと思うのです。あの失敗のあと、私は物事をはじめるときには必ず、「これはなぜ、自分がやらなければならないんだっけ」と、私がかかわることの本質を考えるようになりました。あの失敗が私に気づかせてくれたものはそれでした。おかげでいまの自分があると思えるほどです。
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