ドムドムの落日とマクドナルドとの深い因縁

ダイエー創業者が見た夢はここに潰えた

1980年5月、銀座7丁目の中央通り沿いにウェンディーズ1号店がオープンした。藤田マクドナルドに約20年勤めた外食コンサルタントの王利彰(70、元・立教大学大学院教授)はこう回想する。

「私は1980年2月、マクドナルドの神奈川、静岡方面を統括するスーパーバイザーを務めていました。マクドナルドが横浜市の青葉台にオープンした時、ドムドムハンバーガー青葉台店のT店長と知り合い、仲良くなりました。ドムドムは価格設定をマクドナルドと同じにして対抗、一方ではコロッケバーガーとか、お好み焼きバーガーなど独自のメニューを投入、結構人気がありました。

もちろんウェンディーズ銀座1号店の視察に行きましたが、銀座としては場所が悪く、その割に家賃は高額で、客足は伸びず赤字垂れ流しの店でした。ダイエーはウェンディーズとフランチャイジー契約を結び、『20年以内に100店舗以上出店すること』を求められました。また、ドムドムハンバーガーは出店場所、店舗形態、メニュー戦略などが規制され、それまでの勢いを失っていきます」

ウェンディーズはマクドナルドのような勢いがなかった

ダイエーの中内がマクドナルド追撃の切り札として展開したハンバーガーチェーンのウェンディーズは、銀座・原宿・青山など一等地にドミナント出店する作戦を取ったが、マクドナルドのような勢いがなかった。

バブル時代の1980年代後半には店舗の入居時の保証金や賃料の負担が重く、売り上げはあっても利益が出ない体質だった。収益力の高いドムドムが、ウェンディーズの赤字を補塡する格好になった。そのためドムドムハンバーガーをウェンディーズに業態転換したのは横浜の青葉台店など数店舗にとどまった。この時点でダイエーは「二兎を追う者は一兎をも得ず」という迷路に入ってしまった。

ダイエーは土地の値上がりを前提として借金を重ね事業展開してきたが、バブル崩壊で“中内流錬金術”に限界が出て来た。加えて1995年1月、阪神・淡路大震災に襲われ、大阪や神戸など関西を地盤としてきたダイエーは金銭的にも甚大な被害を受け、転落を始めた。そして、2000年に起こったダイエー関連会社株へのインサイダー取引疑惑で、鳥羽董社長と中内会長は全面衝突。中内は代表権返上へ追い込まれた。そして2001年には「時代が変わった」と言ってダイエーを退任した。

ダイエーのカリスマ、中内が手がけたドムドムやウェンディーズのハンバーガー事業は、ここで事実上の終焉を迎えた。ウェンディーズの株式はダイエーが外食大手のゼンショーに売却した。そしてゼンショーは2009年12月、米国ウェンディーズとのフランチャイズ契約満了を機に、契約を更新せず、事業終了という形で全71店舗を閉店した。

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