ドムドムの落日とマクドナルドとの深い因縁 ダイエー創業者が見た夢はここに潰えた

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1969年の第2次資本自由化は外食自由化とも呼ばれ、海外から外食企業が日本を目指そうとしていた。中内は商社ルートなどを活用、マクドナルド創業者のレイ・クロックに会い、マクドナルドの日本におけるエリアフランチャイジー契約を申し出た。

通訳をつけた中内とクロックとの契約交渉は何回か行われ、調印寸前まで進んだという。だが中内とクロックとの交渉は、合弁会社の出資金で折り合わなかった。クロックが「50%:50%」を主張するのに対して、中内は「ダイエー51%:米国マクドナルド49%」を主張し、経営の主導権を取ることに固執したからだ。

日本マクドナルド創業者の藤田田とは

そんな時にクロックと会談したのが日本マクドナルド創業者の藤田田だった。

藤田は東大法学部時代、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)で通訳のアルバイトをして高給を得た。金儲けのうまいユダヤ人の軍人と知り合い、ユダヤ商法の「女と口を狙え!」をはじめとするさまざまな教えを受けた。在学中の1950年(昭和25年)、輸入商社の「藤田商店」を創業、三越などに女性を狙った高級雑貨、貴金属などを卸していた。“銀座のユダヤ商人”を自称、米国にも支店を置くなど1960年代半ばには米国のユダヤ人社会などでは知られたビジネスマンになっていた。

藤田は藤田商店のユダヤ系の米国支店長の紹介で、クロックと1対1で会った。クロックはチェコ系ユダヤ人を両親に持ち、ユダヤ人社会に明るい藤田に好感を持っていた。藤田が自著などでよく語るのは、「15分程度話しているうちに、クロックから『日本でマクドナルドのチェーン展開をやらないか』と、熱心に誘われた」ということだ。

そこで藤田はダメでもともとだと、「出資金50%:50%」「社長以下全社員を日本人とする」という条件を突きつけた。事実上、日本が主導権を握る条件であったが、クロックは藤田が提案した条件を丸のみした。

ダイエーの中内の側近の1人で、ダイエー子会社だった英国風パブ「HUB」(100店舗展開)の元社長・会長を務めた金鹿研一(75)は証言する。

「藤田田さんが横やりを入れて米国マクドナルドの契約を結んだ結果、中内さんは調印寸前までいった契約を破棄され激怒します。中内さんが簡単に引き下がるわけはなく、『よし、それならばダイエーグループの総力を結集して、自前のハンバーガーを作ってやる!』と、号令一下プロジェクトチームを立ち上げるのです。周りの反対には一切耳を傾けず、ドムドムハンバーガーの開発を進めました」

ダイエーの外食産業の旗艦となるドムドムは、「藤田マクドナルド、憎し!」の一念で、開発がスタートしたのだ。この時から「藤田マクドナルド」と「中内ドムドムハンバーガー」との因縁の戦いが始まった。

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