新選組「最強の剣士」は結局、誰だったのか? 「二刀流、剣術、生き様…」総合力はこの剣士だ

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

Q9. 新選組最強の剣士は、いま挙げた中のひとりですか?

いいえ。彼らとは別に、「個人の戦闘能力に匹敵する強さ」を持った人物も多くいます。

そうした剣術だけでない、優れた特性を持つ人物も挙げてみましょう。

この人の存在なくして新選組は語れず

【支柱として最強】近藤勇(1834–1868 天然理心流 局長 武蔵国多摩上石原)

新選組局長・近藤勇(こんどう いさみ)は、非常に理知的な人物で、幕府との折衝等にも淀みなく対応するなど、新選組の地位向上に大きく貢献しました。

もちろん、剣術においても天然理心流の宗家としての実力を有しており、池田屋事件では果敢に敵の中に飛び込み、多くの仲間が傷つき脱落する中で、永倉新八とたった2人で孤軍奮闘しました。

永倉新八が手に傷を負い、刀もボロボロだったのに対して、近藤勇は最後まで無傷で、刀も刃こぼれひとつなかったといいます。

戊辰戦争のさなか、流山の陣屋で「大久保大和」と偽名を名乗っていたところを見破られ、板橋で斬首されました。(慶応4年4月25日、戊辰戦争により武蔵板橋にて刑死 享年35)

【生き様が最強】土方歳三(1835–1869 天然理心流 副長 武蔵国多摩石田)

土方歳三(ひじかた としぞう)は、その厳格な人柄から「鬼の副長」と呼ばれ、隊士からおそれられていた存在です。

しかし、隊の実質的な戦略、戦術の指揮官として「新選組」の名を天下に知らしめたのは、まさに彼の功績でしょう。

幕府が滅んでなお、死の瞬間まで武士としての生き様を貫いた彼の哲学は、時代を超え現代の私たちの心に生き続けています。

実際、函館にある彼の最期の地には、いまでも多くの信奉者の線香の煙が絶えることがありません。(明治2年5月11日、戊辰戦争五稜郭の戦いにて戦死 享年35)

【先見性で最強】伊東甲子太郎(1835–1867 北辰一刀流 参謀 文学師範 常陸国志筑)

伊東甲子太郎(いとう かしたろう)は、近藤、土方に次ぐ新選組のナンバー3で、深く学問にも通じ、文学師範も兼ねた学者肌の人物でした。

佐幕派の新選組にありながら、同時に徳川幕府の限界を見通していたひとりで、内部から新選組を勤皇派へ変革させようと試みます。

しかしそれが仇となり、最後は近藤らによって暗殺されました。(慶応3年11月18日、内部抗争により京都油小路にて謀殺 享年33)

【砲術で最強】阿部十郎(1837–1907 流派不明 砲術師範 出羽国羽広)

砲術師範の阿部十郎(あべ じゅうろう)は、鉄砲や大砲の射撃を専門とする指南役でした。

新選組というと、もっぱら剣のイメージが強いですが、実際は銃、大砲も所持しており、これらの訓練も日常的に行っていたのです。

後に内部抗争により新選組を脱退すると、復讐のため近藤勇を京都伏見墨染にて銃撃し、右肩に重傷を負わせました。(明治40年1月、東京にて死去 享年71)

次ページついに「最強の剣士」が明らかに!
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事