新選組「最強の剣士」は結局、誰だったのか? 「二刀流、剣術、生き様…」総合力はこの剣士だ

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Q8. では本題に移ります。新選組「最強の剣士」は誰ですか?

なかなか難しい質問です。一口に「最強」といっても、さまざまな尺度があり、その内容によって該当する人物は異なるからです。

まずは、個人の純粋な「戦闘能力」を基準に、卓越した新選組のエースたちを挙げてみましょう。

一堂にひしめく「戦闘のプロ」たち

【実戦で最強】斎藤一(1844–1915 流派不明 撃剣師範 武蔵国江戸)

斎藤一(さいとう はじめ)は、永倉新八に「無敵の剣」の名で「新選組最強の剣士のひとり」と評された剣豪です。

一説では、隊で最も多く人を斬ったとされ、さらには在京中の任務においてかすり傷ひとつ負わなかったといわれています。

また、寡黙な性格でもあった彼は、「スパイ」や「暗殺」といった特殊な任務もこなす器用さを備えていました。(大正4年9月、東京本郷にて死去 享年72)

【剣術で最強】永倉新八(1839–1915 神道無念流 撃剣師範 武蔵国江戸)

二番隊組長の永倉新八(ながくら しんぱち)は、その卓越した剣の技量から、撃剣師範を務めました。

隊の生き残りのひとり、阿部十郎の述懐では、「(剣術の稽古においては)永倉のほうが沖田総司よりやや実力が上」とされています。

「池田屋事件」でも、沖田総司らほかの隊士が続々と離脱する中、自らも手を負傷しながらも、近藤と共に最後まで修羅場を戦い抜いた超人です。

彼は明治以降、新選組に関していろいろな記述を残しています。(大正4年1月、北海道小樽にて死去 享年77)

【槍術で最強】原田左之助(1840–1868 宝蔵院流槍術・種田流槍術 伊予国松山)

原田左之助(はらだ さのすけ)は、宝蔵院流または種田流槍術を修めた槍(やり)の名手です。

戦国時代の豪傑、本多忠勝や加藤清正も戦場では槍を多用しており、刀よりもより実戦的な武器として、「槍の使い手こそ最強」という見方もあります。

坂本龍馬暗殺事件では、現場の遺留物に彼のものとする鞘(さや)が見つかり、容疑者のひとりに挙げられました。(慶応4年5月17日、戊辰戦争江戸上野の戦いにて戦死 享年29)

【二刀流で最強】服部武雄(1832–1867 流派不明 播磨国赤穂)

服部武雄(はっとり たけお)は、その並外れた体格と豪腕を生かし、当時でも珍しかった「二刀流」を自在に操る達人です。

のちに彼は「新選組の内部抗争」により命を狙われますが、そのときは自分ひとりで30人を相手に死闘を繰り広げたといわれています。

二十数カ所を斬られ絶命するまでに、10人以上の相手を負傷させ、死してなおその顔色はまるで生きているかのようだったとも語り伝えられています。(慶応3年11月18日、内部抗争により京都油小路にて謀殺 享年36)

【柔術で最強】松原忠司(1835?–1865 関口新心流 柔術師範 播磨国小野)

松原忠司(まつばら ちゅうじ)は、関口流柔術の使い手で、四番隊組長、柔術師範です。

入隊以前は、自らの道場を開いていたほどの達人ですから、接近戦や組討ちでは彼にかなう相手はいなかったでしょう。

剣術も得意とし、その風貌から「今弁慶」の異名をとりました。(慶応元年9月1日、京都にて病死 死因は諸説あり 享年31)

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