まず失恋したときにバレるのが、「その人が客観的に状況を把握できているかどうか」である。
二流の失恋者は、つねに「自己正当化」する
一流の失恋者ほど、一歩下がったところから大局的に自分を見つめているものだ。
これに対し、二流の失恋者に限って、「過去の思い出」をベースに、自分こそ相手にとって1番の存在だと「自己正当化」する、恥ずべき傾向を持っている。
「あれだけ楽しい思い出を共有したのだから」「これほど深く理解し、愛しているのは自分だけだ」、あるいは「そんな簡単にほかの相手に行くはずがない」などと、ここに書くだけで恥ずかしくなるような妄想に取りつかれている人たちも少なくない。
「過去の思い出で、結婚相手を決めることはできないよ」「将来、一緒に楽しく暮らしているかどうかを、その人とイメージできるかどうかが肝心」というのは、未来志向の“モテモテな人々”が異口同音に語る、残酷な真実である。
続いて失恋でバレるのが、その人の「危機管理能力の有無」である。
人はたいてい、失恋する前に、幾度となく相手から「別れのサイン」を送られているものだ。
しかし、「釣った魚に餌を与えない症候群」という不治の病にかかっていらっしゃる残念な人に限って、相手から「明確な三行半(みくだりはん)」を突き付けられないかぎり、別れのサインもシグナルもすべて見逃してしまう。
恥ずべき二流の失恋者は、つねに自分が相手の自己肯定感を高められているかどうか、自問しない。また、「自分といることが、相手のレベルを高められているかどうか」と自問する習慣を、ピクリとも持っていないのだ。
そもそも今の自分は、現在の瞬間風速においても、「相手にとって最良のパートナー」になりえているだろうか? 今の自分は相手にとって「代替可能なほかの選択肢」に比べて、割高か割安かという「自分のバリュエーション」を適切にできているかどうかという視点も重要である。
失恋の局面では、その人の「危機管理能力・自己評価の有無」も、残酷なまでにバレてしまうのである。
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