物理学者の墓を訪ねて考えさせられること 墓参りとはきわめて個人的な行為である
十代の頃に物理の方程式と出会い、「世界と溶け合って周りの風景の隅々が全く違う質感を持って見えた」という悟りにも似た境地を体験した著者にとって、墓参りは、「自分にとってこの上なく大切なもの、全身を揺さぶる情動を与えてくれた人」の少しでも近くに行きたいという、自分の中にある「スピリチュアルな何か」に導かれた営みなのだ。
このように墓参りはきわめて個人的な行為であると同時に、墓には故人をめぐるさまざまな情報が蓄積されており、それを読み解く知的探求という側面もある。
同じ科学者とは思えないほど対照的なふたりの墓
そのひとつの例が、ロンドン郊外のブラムレイに眠るリーゼ・マイトナーの墓だ。彼女は同僚だったオットー・ハーンとともに核分裂を発見したが、ふたりの墓は歴史的な業績をあげた同じ科学者とは思えないほど対照的である。
科学界におけるユダヤ人差別や女性差別にさらされながら、マイトナーは30年以上にわたりドイツでハーンとの共同研究を続けてきたが、ナチスが政権をとり、ユダヤ人への迫害が激しさを増すなか、ついにスウェーデンへの亡命を余儀なくされる。
マイトナーが去った後、ウランに中性子をぶつける実験でバリウムができているのを発見したハーンは、手紙でマイトナーに相談する。手紙を読んだ彼女は、核分裂反応が起きているとたちどころに見抜く。世界で初めて核分裂反応という新しい概念にたどり着いた瞬間だが、一方でこれは、ウランによる原子爆弾製造の可能性が見出された瞬間でもあった。
マイトナーとハーンのその後は明暗が分かれる。ナチスを恐れたハーンは、マイトナーの名前を外して論文を発表し、1944年にノーベル化学賞を受賞する。一方のマイトナーは、イギリス政府から原爆開発への協力を要請されるものの断固拒否し続け、広島と長崎に原爆が落とされたと知った時は自分のせいだと泣き崩れ、自らの発見を呪ったという。それからは一切の研究を絶ち、反核や女性の権利の問題などに関わった後、最期はケンブリッジの老人ホームで89歳の生涯を閉じた。
ロンドン南西の田舎町ブラムレイにあるマイトナーの墓は、まさに「打ち棄てられた」という表現がぴったりだ。雑草が生い茂り、朽ちかけた墓からは、生涯独身で身寄りもなかったと思われる彼女の人生が偲ばれる。墓石に記された“A physicist who never lost humanity”(決して人間性を失わなかった物理学者)という文字はほとんど消えかかっていたという。
一方、ゲッティンゲンにあるハーンの墓は立派だ。磨き上げられた縦長の墓石の上方にはくっきりと“OTTO HAHN”の名が、下方にはその業績を誇るかのようにウランの中性子による核分裂の反応式が刻まれている。ふたつの墓はわたしたちにいろいろなことを教えてくれる。
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