物理学者の墓を訪ねて考えさせられること 墓参りとはきわめて個人的な行為である
本書に触発されて、ぼくも物理学者の墓を訪ねてみることにした。(本書で紹介されている13人の偉大な物理学者のうち、6人は日本人である)。
桜のつぼみがほころび始めた頃に訪れたのは、青山墓地にある長岡半太郎の墓だ。長崎・大村藩士のひとり息子として1865年に生まれた長岡は、岩倉使節団の一員として西洋文明の発展ぶりを目の当たりにして衝撃を受けた父に、「欧米の学問を学べ」と育てられた。東京大学理学部に入学してからも常に「日本人が科学研究の一翼を担えるだけの創造性を持ち得ているか」という問題意識を持ち続け、ドイツで最先端の物理を学び、帰国後は日本の科学立国のために力を尽くした。
1896年の三陸沖地震では、運動方程式から津波の高さや速度を示す式を導き出し、日本における津波研究の嚆矢となり、1903年には、電子が原子核のまわりをまわる原子の土星モデルを世界で初めて提唱するなど(だがこの偉業は欧米の科学界で黙殺される)、研究者としても超一流だった。
人を見る目も確かで、ノーベル物理学賞の推薦者として湯川秀樹を推薦した他、理化学研究所の第3代所長に当時42歳だった大河内正敏を抜擢し、また日本人として初めて量子力学を完璧にマスターした仁科芳雄を見出したのも長岡である。実力を伴わない権威主義や前例踏襲の官僚主義が大嫌いで、公式な場に赴く際も勲章を付けず、それどころか初代文化勲章を除く数々の勲章はすべて燃やしてしまったという。
こんな魅力あふれる人物がどんな墓に眠っているのか、実際にその場所に立って何かを感じてみたかった。だが本書でせっかく地番が紹介されていたのにろくに調べもせず、いつものように青山通り側から入ったのが間違いだった。目指す墓はまったく反対の側にあることがわかり、広大な青山墓地を端から端まで縦断するはめになってしまった。
忙しい日々の中で忘れた感覚を思い出す
延々と墓地の中を歩きたどり着いた小高い丘の上にその墓はあった。眼下はもう外苑西通り、西麻布の交差点は目と鼻の先だ。手を伸ばせば届きそうな近さに六本木ヒルズが聳え、すぐそばの国立新美術館の草間彌生展には多くの人が押しかけているはずなのに、その喧騒がここまで届かないのが不思議なほど静かである。
墓は手入れが行き届き、とてもきれいだった。実はこの墓は少し変わった構成になっているのだが、それはぜひ本書をお読みいただきたい。ここでは、形式や伝統にとらわれない長岡半太郎らしい墓であるとだけにとどめておこう。
墓誌をみると、つい最近も鬼籍に入った方がいらっしゃることがわかる。そこに連なるお名前を拝見しながら、この墓が長きにわたって関係者によって大切に守られてきたことを知った。南からの暖かい風が水仙の黄色い花弁を優しく揺らし、ひばりの囀りが聴こえてくるなか、しばしその場で静かに時を過ごした。とても豊かな時間だった。
もし休みがとれたなら、あなたもひさしぶりに墓参りに出掛けてみてはどうだろう。死者と過ごす静かな時間は、忙しい日々の中で忘れてしまったいろいろな感覚を思い出させてくれるはずだ。
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