村上春樹は、なぜ「同じ話」を書き続けるのか 彼が「騎士団長殺し」でも挑んだテーマとは?

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おおよその設定はそういうものだ。この舞台の上で、総白髪のハンサムで富豪の免色涉や、13歳の謎めいた美少女・秋川まりえといった登場人物が「私」と関係を持つ。多分に都合のいいセックスフレンドの人妻も登場する。

いかにも村上春樹的な「私」が、いかにも村上春樹的なアイテム(自動車に音楽、料理……)をはべらせて、いかにも村上春樹的な登場人物たちと、いかにも村上春樹的な会話や交流を持ちながら、いかにも村上春樹的な状況と謎に巻き込まれて物語は進んでいく。

ある人は「『これぞ村上春樹!』なサンプル」と言い(斎藤美奈子『朝日新聞』2017年3月5日付朝刊)、ある人は「春樹ワールドの語り直し」と言い(鴻巣友季子『毎日新聞』2017年3月5日付朝刊)、ある人は「なじんだパーツの再利用」と言い(清水良典『週刊朝日』2017年3月17日号)、ある人は「ハルキ世界の満漢全席」と言い(大森望『週刊文春』2017年3月16日号)、ある人は「スペックが上がったハルキ・ムラカミという車の最新モデル」と言っていたが(小野正嗣『朝日新聞』2017年3月8日付朝刊)、肯定的にせよ、否定的にせよ、言わんとするところはみな一緒だ。「いつもと同じだ」と。

もっともそれは前作『1Q84』についても言われていたことだし、それ以前の作品についても言われていたことだ。ここ20年くらいずっと言われているんじゃないだろうか。

村上作品で反復される「構造」

先日、本サイトに寄稿した「村上春樹がノーベル文学賞を取れない理由」でも述べたけれど、村上春樹の長編小説はある構造を反復している。再掲しよう。

「春樹の小説は構造に類型がある。喪失感や虚無感を抱えた主人公が何か(ピンボールマシン、羊、ガールフレンド、妻……)を探している。世界は2層になっていて、現実と異界が接触しており、その間の行き来によって物語は推進力を得ている。異界には何か邪悪なもの(羊、やみくろ、リトル・ピープル……)が存在しており、現実世界へ侵入してくる」

1980年発表の長編第2作『1973年のピンボール』あたりでこの構造の萌芽が見えて、第3長編『羊をめぐる冒険』(1982年)もしくは第4長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)あたりでほぼ完成する。以降の彼の主要長編は――もちろん例外もあるものの――この類型によって追求されるものを進化ならびに深化させるべく書かれてきたように見える。

新作を発表するたびに「マンネリ」だの「自己模倣」だのと批判されながらも(村上は批評の類は読まないと言っているけれど、そうだとしても耳に入っているだろう)、村上春樹がこの構造を手放そうとしないのは、あるいはオブセッションなのかもしれないが、突き詰めた果てに自身の文学の目指すものがあるはずだと確信しているからに違いない。

とするなら、モチーフや構造の類似ばかりを言い立ててもあまり生産的ではない。そうした類型を用いることで、何がどこまで描かれたかに注目するのが、新作を評価するためには妥当な姿勢ということになるのではないか。

村上春樹の作品は、『ねじまき鳥クロニクル』(1994~95年)を境に、以前と以後に分けられることが多い。阪神淡路大震災とオウム真理教事件を跨いだ作であり、この震災と事件の前後で村上自身が「デタッチメントからコミットメントへ」姿勢が変わったと表明しているからだ。『ねじまき鳥~』ではノモンハン事件が扱われていたが、以降、村上春樹は歴史をかなり生々しく取り込んで作品を描くようになる。『騎士団長殺し』では、ナチスと南京事件が作品の基底をなすもののように置かれている。

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