村上春樹は、なぜ「同じ話」を書き続けるのか 彼が「騎士団長殺し」でも挑んだテーマとは?

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だが主題の変化という点で見ると、以前以後の線は、『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)あるいは『国境の南、太陽の西』(1992年)で引くこともできる。「僕」と「僕」の分身(鼠、五反田君)を、対極でありながら同一でもある軸としてデビュー以来描かれてきた「60年代的価値観」をめぐる物語に、これらの作でそれなりの決着がつけられているからだ。

そう見ると『ねじまき鳥~』は、「デタッチメントからコミットメントへ」という意識の変化より先に、「60年代的価値観」に代わる新たな主題を模索し始めた作品であるという解釈も成り立つ。

ちなみに初期作における「60年代的価値観」を象徴し体現していたのは、ビーチ・ボーイズやビートルズ、ボブ・ディランやドアーズなどのポピュラーミュージックだった。『ねじまき鳥~』以降、作品の主題曲としてクラシックが置かれるようになりポピュラーミュージックが影を潜めていくのは、主題を切り替えたことに対応していると考えることができる。

では『ねじまき鳥~』から新たに追求され始めた主題とは何か。

「同じ物語」を書き続ける理由

これがなかなか難しい。というより、新たな主題が何であるかを見極めるために、村上春樹は類型の構造を反復し続けているように見えるのである。春樹自身、自分が新たに主題にしようとしているものが何であるのか、よくわかっていないのではないか。わからないから、わかろうとして、何度も何度も同じ物語を書き続けているのではないか。

第1部と第2部をあわせて1050ページ超。ファンにとってはうれしいボリュームだろう(撮影:編集部)

主人公で画家である「私」は、生きた肖像画を描くためには、顔の特徴を的確にとらえるだけでは十分ではない、顔だちの核心にあるものを見て取ることが肝要だと語る。この核心は「イデア」とも言い換えられる。

「私」は、免色やまりえの肖像画(いわゆる「肖像画」の範疇を逸脱した絵なのだが)を描くが、それは、対象から感取した核心あるいはイデアを、自分の中で有機的に再構成し、キャンバスに移していく作業であるとされる。そして、その作業はある時点で唐突に終わり作品は完成すると言う。

「未完成と完成とを隔てる一本のラインは、多くの場合目には映らない」「しかし描いている本人にはわかる。これ以上手はもう加えなくていい、と作品が声に出して語りかけてくるからだ」

「私」が語る絵画論は、村上春樹本人の創作に対する意識にほかならないように見える。その意味でこの新作長編は、文芸評論家の清水良典や社会学者の橋爪大三郎も指摘していたが、村上春樹自身による村上春樹論の趣を持っている。

「イデア」は「メタファー」と対を成し本作の鍵となっている概念でもある。「穴」を介して現実と繋がってしまう非現実の世界は、イデアとメタファーの世界だ。

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