ドイツ人は「沢山の余暇」をどう過ごすのか 10人に3人がスポーツクラブに入る意味とは
それを如実に示すのが、ドイツで選挙の際に作られる市議候補者のプロフィール付きのリストだろう。ここには、スポーツクラブをはじめ、候補者たちがどのNPOのメンバーであるか明記していることがある。ドイツの地方議員は、原則無報酬。彼ら自身も、自分の可処分時間をNPO活動や政治活動にあてているわけだ。良い意味で「市民活動家」と「政治家」の違いが判別しにくい。
「休みは自宅でゆっくりしたい」社会の改善が第一歩
以上のことから、全体的な個人の可処分時間を増やすと、経済効果のみならず、社会そのものに安定性とダイナミズムが違和感なく備わってくる可能性があると言えよう。これは企業側から見ても、損にはならないはずだ。むしろ長期的に重要な経営戦略のひとつだろう。なぜなら社会は経営基盤であり、その疲弊は、経営の土台が脆弱になっていることを意味するからだ。「三方良し」のように、売り手・買い手のみならず、商売の基盤そのものにも目配りした伝統的な哲学を思い出すべきだろう。
明治以来、富国を目指して走ってきた日本だが、結局、経済成長を軸に考えすぎた。成長し続けているときは、経営基盤としての社会も、地縁・血縁的な人間関係をベースにまだ安定していたが、バブル崩壊以降は労働環境も悪化し、伝統的な人間関係の疲弊も露呈。「まちづくり」「NPO」などをとおして、コミュニティに「信頼の網目」をつくっていく動きは出てきたが、時間がかかるものだ。
ここで2月末のプレミアムフライデーに話を戻すと、「何をするか」という質問に対して、「自宅でゆっくりしたい」という人が意外に多く、「これでは消費につながらない」という意見も散見された。だが少し違う見方をすれば、これは社会がくたびれている証左のようにも見えた。くたびれていれば、安らぎや静寂が欲しくなるからだ。
だが、休息をとって、元気になれば、可処分時間をより社会的に意味のあることに使おうとする人が増えるだろう。そうすると新しい形の消費もまた出てくる可能性がある。また、育児や介護といった社会全体で考えるべき課題の前提条件も変わってくる。人々の全体的な可処分時間は、社会そのものの強さや形を決める変数として、とても大きいはずだ。
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