世界の歴史をさかのぼってみると、かつては軍事・経済・文化で繁栄を誇った国々の多くが、中間層の疲弊・没落をきっかけにして衰退や滅亡の道をたどって行きました。そこで今回は前編(「中間層の没落」とともに国家は衰退に向かう)の古代ギリシャの事例に続く後編として、古代ローマ帝国の歴史を振り返ることによって、現代社会における「中間層の重要性」を見ていきたいと思います。
世界の古代史のなかでも最も有名なローマ帝国の始まりは、紀元前6世紀の初め頃に、ラテン人の一氏族が現在のイタリア・ローマの地に建国した都市国家でした。当時のイタリア半島には、ラテン人の諸族の国家のほかに、北部に先住民族のエトルリア人の諸国家、南方の沿岸部にはギリシャ人の諸植民市がありました。ローマはそのうちの小さな国家のひとつにすぎなかったのです。
中小農民の歩兵部隊が周辺国を相次ぎ征服
それでは、なぜローマは大帝国を築くことができたのでしょうか。それは、イタリア半島の風土や気候がギリシャとほぼ同じであったからです。ローマ人はギリシャ人と同じように、貴重な特産物であるぶどう酒とオリーブ油をユーラシアの内陸部へ出荷し、その代わりに大量の穀物や貨幣を手にするようになったのです。その結果、ローマの農民はギリシャの農民と同じく、中小農民と呼ばれる富裕な農民となっただけでなく、武具〔兜(かぶと)、鎧(よろい)、盾、槍(やり)など〕を自費で賄う重装歩兵にもなりえたというわけです。
イタリア半島にもギリシャの重装歩兵の屈強さは知れ渡るようになり、ローマでも戦争の主役は、馬を所有していた貴族による騎兵から中小農民による重装歩兵に変わっていきました。ローマは元老院や執政官の指導のもと、中小農民からなる重装歩兵部隊をうまく使いこなし、周辺のラテン人や北部のエトルリア人の国家群、南部のギリシャ人の植民市群を相次いで征服していきます。そして紀元前272年には、ギリシャ人の植民市タレントゥムを攻め落とし、イタリア半島の統一を達成します。
イタリア半島を統一する過程では、戦争の主力である中小農民は平民として政治的な発言力を強めていきました。すでに紀元前494年には、民会で選ばれる平民の代表として護民官という役職が貴族に対抗するために設けられていましたが、さらに紀元前367年には、2名の執政官のうち1名が平民に開放されることを定めたリキニウス=セクスティウス法、紀元前287年には、民会の決議が元老院の承認を経なくても国法になることを定めたホルテンシウス法が制定されました。貴族に代わって平民がローマの政治の中心になっていったというわけです。
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