第2次ポエニ戦争以降、ラティフンディウムが普及してくると、属州の農地では主に果樹と穀物が生産され、奴隷労働によって生産された安価な食料が大量にローマに流入するようになりました。属州から本国ローマへの安価な食料の輸入は、ローマ内での食料価格を大幅に下落させ、長年の戦争で疲弊していた中小の自作農民にさらなる大きな打撃を与えることになります。現代の日本の小規模な農家が米国やオーストラリアの大規模農業にコストでかなわないのと同じく、イタリア半島における小規模な家族経営の農業では、大土地所有者が奴隷を大量に使役する征服地のラティフンディウムに対して、コスト的に太刀打ちできなかったのです。
長年の従軍による農地の荒廃とラティフンディウムの普及といった二重の苦難によって、かつて裕福だった中小農民は借金の積み重ねに耐えられず、次々と土地を手放すようになっていきます。それまでローマの軍事・経済・財政の中心に位置した豊かな中間層は、無産市民か小作人に身を落としていくこととなったのです。それと併行するように、農民の土地を買収した貴族や騎士などの大土地所有者は、戦争に勝利したことで大量に流入してきた捕虜を農業奴隷として、ローマ本国でもラティフンディウムを始めるようになります。
その結果、大土地所有をする貴族や騎士と没落した中小農民の格差が拡大し、ローマ社会は国家の分断に直面するようになり、「内乱の1世紀」と呼ばれる暗黒の時代が始まります。ローマを強国にした重装歩兵による密集隊形(ファランクス)も、ポエニ戦争の終結後には使われなくなっていきます。ローマはカルタゴを滅ぼしたことによって、地中海全体を制覇することができたのですが、その代償はあまりにも大きかったといわざるをえません。
グラックス兄弟の改革も富裕層の抵抗で挫折
中小農民の没落による軍事力の低下に危機感を持ったグラックス兄弟は、護民官に選ばれるやいなや、これ以上のラティフンディウムの進行に歯止めをかけるべく、貴族や騎士による国有地の借り受け面積を制限し、無産市民になった農民に土地を分け与えるという改革を行おうとします。ところが、グラックス兄弟の改革は富裕な支配者階級の猛烈な反対攻勢を受け失敗し、兄は殺され弟は自殺に追い込まれてしまいます。歴史を振り返れば、この局面こそが本当の意味での豊かなローマの最後の踏ん張りどころであったのではないでしょうか。
いずれにしても、富裕な支配者階級は自らの富を増大させることに腐心するかたわら、農地を失った中小農民は無産市民や小作人に身を落とし、国家への不満を募らせていくようになっていきました。その揚げ句には、富裕な支配者階級と没落した市民階級のあいだで、経済的格差から閥族派と平民派に分かれて争いが勃発し、ローマは内乱の1世紀へと突入していったのです。
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