英語という「支配言語」とその社会に根付く「国語」
それでは、音楽の船旅から帰還。陸に上がれば、またも大きな建物が見え、その中に入ってみると、広い芝生の上で白球が元気よく飛び交う様子が目に飛び込んできます。そう、今年から、地元の大リーグ球団トロント・ブルージェイズで活躍する川崎宗則選手です。
少し前のことになりますが、試合後のインタビューを、
“I am everyday studying English. See you tomorrow.”
と締めくくったことが話題になりました。なぜ話題になったかと言えば、
“See you tomorrow.”
は、このような場面ではあまり適切ではないと考えられるからでしょう。
西洋古典音楽の世界や、ルールが万国共通であるプロスポーツの世界においては、「言語」に頼る部分はあまり大きくないので、世界が活躍の舞台になりえます。英語があまり話せないことは、それほどハンディキャップではないかもしれません。
しかし、ポピュラー音楽となると話が違ってきます。私たちは、小澤征爾氏や香川真司選手の活躍は期待できても、椎名林檎氏のワールドワイドな活躍を期待しないでしょう。英語のポップが世界に流布しているのは、まさに、それが英語という「支配言語」で歌われているという部分が大きいと考えられます。
経済学の分野においても状況は似ていると考えられるかもしれません。財政や労働問題といった、その社会の成り立ちの根幹の部分と大きく関わっていると考えられる分野にあっては、その社会に根付く「国語」によって考え、発信することの重要性が高いものと思われます。
これらの分野では、用いられる述語が、原理的には英語に翻訳は可能だが、冒頭で引用した加藤氏の言うところの「翻訳困難」のケースが比較的多いように思われます。
ただ、もちろんそれは、「ワールドワイドなオーディエンス」を対象とした「グローバルなアカデミック・コンペティション」に参加しないことでもあり、自然科学や社会科学の一部の口悪い人たちからは、競争そのものから逃げていると思われがちです。現在の人文科学及び社会科学が抱えているディレンマです。
さて、上述の「構造的」な問題、それはそれと致しまして、多くの皆さんがより大きなご関心をお持ちと思われる話題、即ち、どうして、日本人が英語を話せないのか、その問題についての管見を披露させていただきましょう。
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