国民的ヒット曲が生まれなくなった根本理由 音楽を取り巻く環境に起きた構造変化
どうやらこの頃、リスナー側では聴取文化のある種の断絶が起きており(宮台真司が「社会の島宇宙化」と表現していたのを思い出す)、楽曲制作の側ではそれまでとは異質な曲づくりが行われるようになっていたようなのだ。
このように、仕事の現場でモヤモヤしたままになっていた疑問をすっきりと解消し、さらに何が問題なのかをクリアに解明してくれた素晴らしい1冊が、『ヒットの崩壊』柴那典(講談社現代新書)である。
「聴取」から「体験」へ
紅白の出場歌手が発表されるときまって「年をとったせいか知らない歌手ばかりだよう」と嘆くおじさんやおばさんがいるが(注:我が家の会話ではない)、本書を読むと、歌手や曲名を知らないのは年齢のせいばかりではないことがわかる。なぜなら、もはやかつてのような「国民的ヒット曲」は生まれにくくなった(必要とされなくなった)からだ。
音楽を取り巻く環境にどのような構造変化が起きたか。本書では見事なまでに細大漏らさずそのポイントが押さえられているが、ここではもっとも大きな変化を挙げておこう。それは「聴取」から「体験」へという変化だ。
昨年だけでも、20周年を迎えたフジロックはじめ大小100以上もの音楽フェスが開催された。音楽はもはや聴くだけではなく、参加しその体験を共有しあうものへと変化した。もちろんフェスはロックだけにとどまらない。アニソンを歌うアーティストだけを集めたイベントで埼玉スーパーアリーナが3日間埋まるのもいまや見慣れた光景だし、テレビの音楽特番もフェスの要素を取り入れ大型化をたどる一方だ。
そういえばマドンナがワーナーとの関係を解消して世界最大の興行プロモーターのライブ・ネイションと1億2000万ドルという巨額の契約を結んだのが2007年のことだった。マドンナはその後、アルバムに関しては新たに別のレーベルと契約したけれど、その金額は3000万ドルと報じられている。つまりコンサートやグッズの販売などに比べ、アルバムが占める割合はわずか25%。マドンナはとっくに今の時代を予見していたのだ。
渡辺裕はかつて『聴衆の誕生 ポスト・モダンの音楽文化』(中公文庫)の中で、市民階級の勃興や消費文化の拡がりとともに近代的な聴衆が誕生したプロセスを描いてみせたが、いま起きているのは、この19世紀に勝るとも劣らない大変化ではないか。
音楽の受容形態が「聴取」から「体験」へと大きく変化したことで、コンテンツの創り手がより頭を悩ませるようになったのは、この「体験」の中身が極めて多様なことだろう。フェスで仲間たちと夜通し語らう「体験」もあれば、ソーシャルメディアで動画などを共有することで楽しむ「体験」もある。つまり何がきっかけになって、結果的にどんな「体験」がユーザーに刺さるかは誰にも予測できないのである。
ともあれ確実に言えるのは、主導権はいまやユーザーの側にあるということだ。メディアや一部の事務所の都合でヒットをゴリ押しできると思ったら大まちが……(まずい! 地雷を踏みそうになってるぞ! フェーダーを絞って、いったんここでCMです)。
個人的な感覚に過ぎないかもしれないが、社会の変化がもっとも先駆けて現れるのが音楽の分野ではないかと感じている。だからこそ本書の汎用性は高い。ヒットの構造が変わったのは、音楽の分野だけではないはずだ。「物が売れない」と言われる時代だからこそ、広く読まれてほしい良書である。
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