伝説の経済学者「宇沢弘文」を知っていますか スティグリッツが師と仰ぐ日本の「哲人」とは
伝統的な経済学では人の選好は生まれたときから決まっており、それ以外のどこからも発生するものではないという前提を置いてきました。ところが実際には固定化された選好を持って生まれてくる人間などいませんし、選好は後天的に形作られるものです。それは私たちが所属する社会によって形作られ、またどのように形作るかは自分たちで決めることができるのです。そのように選好は内生的であるという事実は、幸福についての奥深い問題を提起します。伝統的な経済学はそうした問題を避けようとしています。これまでの取り組みはパレート最適の概念を活用したものでした。それは固定化した選好を持った人々をひとかたまりにして、その人たちの幸福度を最大化しようという取り組みです。
このような考察を進めていくと、一体どういう社会がよい社会なのか、経済学は社会からどのような問題を投げかけられているのかという疑問が生じてきます。
今日、アメリカをはじめいくつかの国々では、物質的な幸福度が最優先となってしまいました。アメリカの共和党を含めたいくつかの団体では、地球を救い、プラネタリーバウンダリーのなかで生きていくためにかかるコストはいくらなのかと、あたかも他に選択肢があるかのような議論がなされています。私たちは費用対効果の分析結果に従って生活、いえ生き残っていくことができるというのでしょうか。銀行家はしばしば経済学徒としては優秀ですが、彼らは想像もできないような不道徳な行為をしてみせます。それらは詐欺、市場操作、差別、貧しい人たちからの搾取などを伴う行為で、金融業界にはそうしたことが蔓延しています。
宇沢先生が取り組んでおられた分野のひとつに人口は内生的であり、プラネタリーバウンダリーの範囲内で生きていくためには人口を抑制する必要があるという考え方があります。実際に先進国では人口減少がすでに起きています。そうした国々では人々はそれまでとは違った選択をしているのです。一部は彼らが直面している経済状況がそうさせているのかもしれません。しかし、経済的、社会的進歩がより広範囲に行き渡るに従って、そうしたことが起こってくるのは事実だといえるでしょう。
米国発「株価市場主義」経済学との戦い
ここで少し、シカゴ大学とその経済学に話を戻しましょう。1960年代、宇沢先生は不幸にもその環境の真っただ中で生き延びなければならなかったのです。当時、ミルトン・フリードマンがシカゴ大学の経済学派のリーダーであり、株式市場価値の最大化は社会的幸福度を最大化するので望ましいという議論を展開していました。この議論はアメリカをはじめ多くの国々の法体系に大きな影響を与えました。実際、企業は株価の最大化に努めなければならないとする法律が作られた国が数多くあったのです。しかし注目に値するのは、この議論は実際には間違っていたと結論づけられたことです。その議論は非常に制約された条件の下でしか有効ではなかったのです。
ところが、フリードマンのような考え方が採用されてしまったことで、短期的な視野に基づく経営、経済パフォーマンスの低下、不平等の拡大が起こりました。そのことは私が近著Rewriting the Rules of the American Economy(邦訳『スティグリッツ教授のこれから始まる「新しい世界経済」の教科書』)のなかで取り上げた主要テーマになっています。この本ではそうした考え方が及ぼした影響、1980年代初期に経済のルールを書き換えることに至った経緯、私たちは今どのように再びルールを書き換えるべきかについて書いています。
フリードマンらが提唱した理論は、自己の利益を追求することが社会的満足度を向上させるとした、アダム・スミスの言葉を反映しているようにも思います。自己の利益の追求というと貪欲であれ、と言っているようで、貪欲であることはよいことのように聞こえてきます。貪欲のよさをうたった有名な映画もありましたね。
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