たとえば、「爆笑問題のニッポンの教養」では、爆笑問題と哲学の先生が哲学について話していくうちに、表現は違えど、道を極めた人同士は行き着くところが一緒だった――というドキュメントが生まれました。
また、「英語でしゃべらナイト」は、英語番組というより異文化コミュニケーションの番組をやっている感覚が強かった。英語ではなく、人が2人以上で合えば、そこに違う文化がぶつかり合うコミュニケーションのカタチがあると。こうした異質なものをぶつけ合う中で、どこまでがわかりあえて、どこからが違うのかを丁寧に考えて行くという異文化コミュニケーションの連続でも、番組が成り立つと思えたのです。
”わかりやすく”にこだわりすぎない
これまでの業界の常識としてある「テレビ番組はわかりやすく」にこだわりすぎるから、番組制作は苦しくなる。討論番組でも、「白か、黒か」という二択ではなく、異文化コミュニケーションの論理で、ゲストが対話を続けていく中で「ここまでは賛同できる」「ここは難しい」などと確認をしていきながら、楕円を描くように視聴者の「考え方」が深まっていくというのも「あり」だと思っています。たとえ、番組を見る前と思考の方向性は変わらなくても、多くのゲストの対話を聞いてからでは、見る前よりも思考が「強化」されていると思うからです。
――今後、「ニッポンのジレンマ」はどこに向うのですか。
「ジレンマ」というコンセプトは変わらないにせよ、時代と呼吸しながら進化していかなければいけないと思っています。場合によっては形式にとらわれないで、1対1の対論のような形になるかもしれませんし、いろいろなスタイルを模索していきたいと思っています。
ただ、毎月最終土曜日の深夜にEテレにチャンネルを合わせると、何か時代の気分、この時代の生き方のヒント、考え方のヒントを吸収できると感じてもらえば。討論番組という枠自体にとらわれたくないですね。また少し上の世代であれば、今の若い世代はどんなことを考えているのかなとのぞきたくなるような、開かれた場所にしたいですね。
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