(第9回)トップランナー阿久悠の“遺言”と悪戦苦闘の跡
高澤秀次
●「作詞家憲法」第13条「歌にならないものはなにもない」
阿久悠の15カ条の「作詞家憲法」の第13条に、「歌にならないものはなにもない」というマニフェストがある。
それはこう続く。
「たとえば一篇の小説、一本の映画、一回の演説、一周の遊園地、これと同じボリュームを四分間に盛ることも可能ではないか」(「怨からの脱出-私の歌謡曲作法」、『近代日本文化論・五・都市文化』)
これを、同じく第7条にある、次の一節と比較してみると面白い。
「電信の整備、交通機関の発達、自動車社会、住宅の洋風化、食生活の変化、生活様式の近代化と、情緒はどういう関わりを持つだろうか」
「歌にならないものはなにもない」という、作詞に当たって阿久悠が追究した無限の市場化可能性は、この第7条の問いかけによって条件付けられ、阿久悠的な詞の世界の、緻密な構成と細部のリアリティを保証していたことになる。
たとえば76年の『津軽海峡・冬景色』(歌・石川さゆり)は、70年代には可能でも、現在ではあり得ない設定になっていることを、阿久悠自身が語っている。テクノロジーの進化によって、歌になり得なくなる世界が、時代的に条件付けられていることを、阿久悠ほど考え抜いた作詞家も、また稀であった。
「僕の演歌作詞作法」(『書き下ろし歌謡曲』)では、従来の「演歌」の発想にはない、「強い女」を描くために、演歌らしいイメージを「情緒の定番」としてすべりこませたと述べている。「宿」、「酒」、「夜汽車」などという、喚起力の強い「小道具」がそれだ。
だが、たとえば夜汽車が廃止になったり、演歌らしい情緒を引き出すリアリティを失ってしまっては元も子もない。
●『津軽海峡・冬景色』がもうあり得ない理由
上野発の夜行列車を使った『津軽海峡・冬景色』(76年)は、青函トンネルができ、寝台特急で津軽海峡を通過できるようになった現在では、景観的にあり得ない世界になるのだ。
夜汽車-青函連絡船のあった時代の、「情緒の定番」自体の崩壊である。さらに、東京を中心とした上り、下りの感覚さえ失われつつある交通事情では、フィクションの前提そのものが一変せざるを得ない、と彼は言う。
交通機関の発達で、「時間」の感覚も大きく変容した今では、たとえば『京都から博多まで』(歌・藤圭子、72年)という発想も、およそ不可能になる。
これは、山陽新幹線が博多まで延びる以前の、在来線で時間をかけて西に流れてゆく、わけあり女の歌だったからだ。
そのヒロインに、あっという間に京都から博多に移動されては困るのだ。
新幹線の普及以前、汽車の窓が開けられた時代の別れの情緒といったものも、かつてはあった。
「一九五八年(昭和33年)、東京-大阪-神戸間で「特急こだま」、いわゆるビジネス特急が運転を始めました。これが歌に与えた影響は大きい。窓が密閉型で開かなかったことが、人の感情のあり方を変えた」(『時代の証言者(11)「ヒットメーカー」阿久悠』)
交通事情だけではない。パソコンやケータイが普及し、使えなくなった「情緒の定番」に、最も打撃を受けた作詞家は、こうしたテクノロジーの変化に最も敏感だった、阿久悠自身であったのだ。
詞の市場化可能性へ向け、周到にアンテナを張っていた先行者なればこそ、彼は手足を縛られたも同然のまま、歌の未来の可能性ではなく、その不可能を実感した。
『UFO』、『モンスター』、『渚のシンドバッド』など、次々に繰り出されたピンク・レディーの一連のヒット曲を、「テーマパーク」になぞらえた阿久悠だが、そうした独創的な歌作りも、80年代に入ると難しくなってくる。
象徴的に言えば1983年、東京ディズニーランドが開園し、歌の世界でしかあり得ない「テーマパーク」の夢を、虚構の世界に築くことが無意味になったからである。
それもまた、歌の危機のある局面ではあった。
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