(第9回)トップランナー阿久悠の“遺言”と悪戦苦闘の跡

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●“無謀な試み”はなぜ行われたか?

 岩波新書の一冊として97年に出た『書き下ろし歌謡論』は、そうした危機意識の産物でもあっただろう。

 曲になることをあてにしない、この「書き下ろし」歌謡曲百篇の試みを、著者は「作詞家による秩序破壊」と自ら語っている。
 また、メロディラインのはっきりしない、サウンド中心の「ミュージック」に対し、「ソングと言葉のために、ドン・キホーテを演じた」とも。

 その最終章のタイトルが、「世紀末抒情」というのも意味深長である。
 20世紀末の歌謡曲の危機に、「百年前の世紀末の頽廃や堕落が、今では抒情に思えるかもしれないと考え、文語体もどきで書いた」という作詞家の孤独な挑戦と挑発。

 ただし、「世紀末抒情」に賭ける彼の意図は、ただちに曲のついた「歌」に結実したわけではなかった。彼の死後、宇崎竜童が作曲を買って出た作品、『目を見て語れ 恋人たちよ』のような例外はあったにしても。

 逆に歌詞の市場化可能性の範囲が、極端に狭まってきたからこそ、彼はこの"無謀な企て"を思いたったのだ。

 80年代よりもさらに苛酷な作詞環境が、バブル崩壊後の90年代日本を待ち受けていた。
 「情緒の定番」が崩れ、新たな「世紀末の抒情」のありかも、鮮明に立ち現れてきはしなかったからだ。「言葉が失われていく危機感」を、大上段から告発するのではなく、もう少し身近に「人間がチャーミングに見える言葉」が、かつて確かにあったことを言いたかったのだと改めて彼は語る。

 だが、この「文語体もどき」で、「70年代には感じなかった女の感情」を、90年代の「世紀末抒情」として歌詞に結晶させることは、ことのほか困難だった。

 『書き下ろし歌謡曲』は、その意味でもドン・キホーテ的な"無謀な企て"であった。商品としての詞の、市場化可能性を最初から度外視して、「作品の独断専行」を行ったからである。

●トップランナーの苦悩と“遺言”

 94年の『花のように 鳥のように』(歌・桂銀淑)、96年の『蛍の提灯』(歌・坂本冬美)、2002年の『傘ん中』(歌・五木ひろし)--
 これらが歌の市場を意識して書かれた、90年代以降の阿久悠の代表作である。

 トップランナーにしか許されない悪戦苦闘の跡が、そこにはある。
 彼は最後まで、決して逃げなかった。歌に見切りを付け、作詞家を降りて、作家に専念するという選択肢もあり得ただろうが。

 「もしかしたら歌の空洞の時代ができてしまうかもしれない。ダンスミュージックを主にやっている小室哲哉君を悪くいっちゃだめなんですね。彼は、それがいまいちばん受けるということでやって成功しているわけです。本当に危機感を感じていたら、こっちに強烈な魅力の言葉をつくりださなきゃいけないんです」(『書き下ろし歌謡曲』)

 この1997年に記された言葉を、私は阿久悠の"遺言"だと思っている。

 彼はこの後、ちょうど10年生きた。
 だがそれは作詞家として、はなはだ不本意な最後の10年だったように思われる。彼が開拓し、新しい歌謡曲の本流と見定めた、演歌でも純粋なポップスでもないジャンルが、歌謡曲からきれいに抜け落ちてしまったからだ。
 ではこの間、いったい何があったのか。

 「昭和と平成の間に歌の違いがあるとすれば、昭和の歌には人に伝えたいことがあり、平成の歌は自分だけを語っているということです」(『阿久悠 命の詩』)

 阿久悠はこれまで、歌謡曲とはその時代、その時代の「飢餓と憧憬」の新しい発見であると何度も語ってきた。
 その人に伝えるべき「飢餓」も「憧憬」も見失われた、のっぺらぼうの平成の世にふさわしい歌を、ついに彼は美しいメロディのついた一曲として、世に送り出すことがなかった。

高澤秀次(たかざわ・しゅうじ)
1952年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。文芸評論家
著書に『吉本隆明1945-2007』(インスクリプト)、『評伝中上健次』 (集英社)、『江藤淳-神話からの覚醒』(筑摩書房)、『戦後日本の 論点-山本七平の見た日本』(ちくま新書)など。『現代小説の方法』 (作品社)ほか中上健次に関する編著多数。 幻の処女作は『ビートたけしの過激発想の構造』(絶版)。
門弟3人、カラオケ持ち歌300曲が自慢のアンチ・ヒップホップ派の歌謡曲ファン。
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