視聴率71%!広島民の尋常ならざるカープ愛 いまさら聞けない「市民球団」の秘密とは?
カープ以外の11球団にはいずれも親会社がある。プロ野球の球団はもともと企業の広告塔という位置づけだったので、大半の球団が全面的に親会社に依存、赤字が出れば補填してもらう関係だった。
この10年ほどは、パ・リーグ球団を中心に経営改革が進み、親会社への依存度が下がっている球団も増えているが、かつては親会社にとっては赤字を垂れ流すお荷物とすら言われた球団も少なくない。
そんな中で、カープはマツダから資金的な支援を受けておらず、特定の企業に依存しない独立採算で運営されている。広島県人がカープを市民球団だと主張しているのは、このことに加え、カープの球団経営の資金を自分たちも出しているという自負があるからだ。
カープは原爆で壊滅状態になった広島復興の希望の光として、終戦から4年後の1949年、広島財界の有志によって設立された球団だ。
爆心地である相生橋の下を流れる太田川が鯉の産地だったこと、原爆で焼け落ちた広島城が鯉城と呼ばれていたこと、そして鯉が出世魚であることから、復興の願いを込めて球団名はカープと命名された。
ファンが球団を支えた「樽募金」の原点
球団設立の発起人は元高級官僚や中国新聞、広島電鉄の幹部だったが、この人たちが個人で球団経営に必要十分な資金を出せるはずもなく、壊滅的な被害を受けた広島の企業にもその余裕はなく、初期の頃は選手の給与の支払いにも窮するほどの状態だったらしい。
当時はチケット収入の配分が、勝ったチームに7割、負けたチームに3割だったそうで、弱いチームは踏んだり蹴ったり。資金がなく有力な選手を獲得できなかったカープが困窮するのは当たり前だった。
今回クライマックスシリーズで戦った横浜DeNAベイスターズの前身である大洋ホエールズは、もともと下関の実業団チームをプロ球団化させたチーム。当時はまだ下関が本拠地で、地理的に近かったことから、大洋ホエールズとの合併話まで持ち上がるほどの窮状ぶりだったらしい。
この酷い配分は後に廃止になり、1952年にはフランチャイズ制が導入され、チケット収入の配分は勝敗とは無関係になるのだが、カープの経営が安定するのはまだまだ先。今で言う私的整理で多額の負債を抱えた旧会社を清算、広島県内企業が出資して第2会社を作るのだが、その音頭を取ったのが、東洋工業(現・マツダ)3代目社長の松田恒次氏だった。現在の株主構成は、この時に株式の名義が東洋工業や松田一族に集中した名残だ。
球団の窮状を知ったカープファン有志も球場入口に酒樽を置き、ファンから募った募金を球団に提供する活動を数年間続けたそうで、ファンの間に市民球団という認識が定着した最大の理由はおそらくこの「樽募金」だ。
独立採算でマツダに資金的に依存していない分、球団名に「東洋」の2文字が入っていることに反発するファンもいるほど。終戦後の苦しい時代、カープに希望を見いだした親から子へ、そして孫、そのまた次の世代へ。家庭教育で当たり前にカープ愛が継承される土壌が広島にはあるのだろう。
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