GAKKOは教育ではない、学びだ
最近、「教育」という言葉が、日本、そして世界で新しいバズワードになっている。「教養教育(liberal arts education)」「国際教育」「ゆとり教育(これは古いけれど)」「新しい教育のあり方」等々、具体的な定義はあいまいだけれども、何となく「大切そう」に聞こえるキャッチフレーズを、政治、経済、そのほか社会のありとあらゆる場面で耳にする。そのたびに、僕は違和感を覚える。「教育」のことばかり議論するだけでは、実際の生徒の「学び」に変化は起きないのではないか、と疑問に思うのだ。
教育、というのは、「学び」を実現するためのインフラ、もしくはシステムだと思う。教育は制度であり、学校であり、枠組みだ。アメリカでも日本でも、教育は、学びの過程を卒業した大人たちが作り上げ、定義している。政治、教育委員会、塾。社会に出た大人の方々が、次の世代の学びの箱をデザインし、カリキュラム(学びを実現するための方程式のようなもの)を定義している。
その一方で、「学び」というのは、実際教育を受ける若者たちが担当している言葉だ。「学び」は、自分も含め、教育を受けている人間、社会から何か新しいアイデアや知恵を吸収しようとしている人間が主語になって実現する。学校では、先生が「教育」し、生徒が「学ぶ」。つまり、教育は、次の世代が学ぶためにあるのであり、逆に言うと、「学び」が起きていなければ、「教育」の意味はなくなってしまうと思う。
自分も人のことはあまり言えないが、高校生、大学生は、しょっちゅう教育に文句を言う。先生が駄目だ、学校が面白くない……等々。高校生、大学生であれば必ず1度は口にしたことがあるのではないだろうか?しかし僕たち学生は、自分たちの「学び」の姿勢をしっかり見つめ直そうとしない。どうしたら自分がより豊かに学べるか? 自分が何を学びたいのか? どうしたら自分の学びの環境がより自分にあったものになるのか? こういう大切な質問を自分自身に問いかけることなく、ひたすら、教育が悪い、教育が悪い、と大人に文句を言うのだ。
僕が思うに、学びの現場に変化を起こすには、教育と学びがしっかりとつながっていなければならない。大人たちが一生懸命教育を考えているだけでは、僕たち若者の「学び」は変わらない。実際の教育の受け手である僕たち学生が、変化を起こす力に加わらないといけないと思うのだ。
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