稲葉 近年、たしかに中国やインドでも貧富の格差は問題になっていますが、それはむしろ過渡的なひずみとでも言ったほうがよいでしょう。環境破壊にしても、技術の洗練や市場メカニズムを用いる方法によって解決する方向に進んでいて、道徳的なお説教で対応すべき問題ではなくなっています。
そうだとすれば、藤田のように「安楽への全体主義」を悪として指弾することは、できません。他人を食い物にしているのであれば、それは悪だと素直に言えますが、おそらくそうではない。それならば、何を言えばよいのか。「動物化」結構、「安楽への全体主義」バンザイと言ってしまわないためには、どういう議論をすればよいのかということを、いま少しずつ考え始めています。
「安楽への全体主義」に安住したい人たちは、他人に迷惑をかけないでそれが可能ならば、そうしていて構わない。だけど、すべての人がそこに安住したいわけではない。そういう安住したくない人たちの足を引っ張るのはやはり間違っていて、安住したい人もそうでない人も、お互いに足を引っ張り合わないような社会の仕組みを考えなければならないのではないか、という議論の仕方があってもいいでしょう。
そうすると、「動物化」に飽きていろいろと余計なことを考える人は少数でよい、いや多数であってもよいけど、全員である必要はない。だから、逆説的ですが、教養というのは一部の人のためのものかもしれません。ただし、間口は万人に対して開いているべきだけれども、全員が入ってくることは期待していないし、実際に全員が入るということもないでしょうね。
山形 ただ、世の中の「動物化」論に類する議論を聞いていると、少し違うイメージもあるのかなと。非常に簡単に図式化すると、「動物化」した人たちのいる領域と、そうではない「偉い」人たちのいる領域に分かれていて、下のほうにいるのは、たとえば2ちゃんねらーとかゲームオタクとかいった下世話なオタクたち、上のほうにいるのは、同じくオタクかもしれないけど、よく本を読むような人たち、といった感じですね。では「動物化」した人たちを上の段階に持ち上げることが、すなわち教養の役割であるかというと、必ずしもそうではない気がしています。
明治学院大学社会学部教授。1963年生まれ。主な著書に『経済学という教養』(東洋経済新報社、2004年)、『オタクの遺伝子』(太田出版、2005年)、『「資本」論--取引する身体/取引される身体』(ちくま新書、2005年)、『マルクスの使いみち』(共著、太田出版、2006年)、『モダンのクールダウン』(NTT出版、2006年)等。
ウェブサイト:http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/
評論家・翻訳家。1964年生まれ。主な著書に『新教養主義宣言』(晶文社、1999年)、『たかがバロウズ本』(大村書店、2003年)、訳書に『環境危機をあおってはいけない』(ビョルン・ロンボルグ著、文藝春秋、2003年)、『クルーグマン教授の〈ニッポン〉経済入門』(春秋社、2005年)、『ウンコな議論』(ハリー・G・フランクハート著、筑摩書房、2006年)等。
ウェブサイト:http://cruel.org/
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