中村紘子体験は、自分にとって初の“本物のピアニスト体験”であり、初めて楽屋まででかけてサインをもらった体験でもあった。リサイタルの感動もそのままに、目の前で観る当時32歳の中村紘子の美しさと存在感は圧倒的。優しい笑顔で握手をしてもらったその手に残る香水の香りは今も忘れ難く、当時は「もう一生手を洗わない・・・」などと思う純情な19歳であった。アーティストの影響力の大きさを改めて感じる瞬間だ。
1968年に、ソニー・レコードの専属第1号アーティストになったことも彼女の人気に拍車をかけた。日本人アーティストに着目した「J-クラシック」なる言葉が生まれるのは、もっとずっと後の話。当時のクラシック界、特にレコード業界は完全に外国人演奏家中心の世界だったことを思えば、専属アーティストとなって50枚にも及ぶアルバムを世に送り出した事実は驚異的だ。
20世紀を代表する音楽評論家の1人、ハロルド・ショーンバーグが著書『ピアノ音楽の巨匠たち』の中で中村紘子を紹介したのもその頃の話。本の中に登場する唯一のアジア人ピアニストであることからも、その評価の高さが伺える。曰く「西欧の音楽家に感銘を与えた数少ないアジア人ピアニストの1人中村紘子は、見事なテクニックと溢れる情感があり、ロマン派音楽を好んで演奏する」と記載されているのだから素晴らしい。
クラシック音楽の大衆化に貢献
お茶の間への浸透という意味で、テレビCM出演の影響も見逃せない。ネスカフェ「ゴールドブレンド」のほか、ハウス食品「ザ・カリー」のCMに出演。特に「ザ・カリー」のCMで描かれた中村紘子の“料理が得意なピアニスト”としての側面は、“高尚なクラシックのピアニスト”を“親しみやすい身近なピアニスト”へと変化させ、狭いクラシックの世界を超越した“誰もが知っているピアニスト中村紘子”へと昇華させた。その結果として、日本全国津々浦々で行われるコンサートは大人気となり、レコードの売り上げも桁外れという人気ピアニスト中村紘子が誕生した。
その意味では、クラシック音楽普及のために一役買ったテレビ番組「オーケストラがやってきた」(1972年~1983年放送)の山本直純(指揮者・作曲家、1932年~2002年)と並んで、クラシックの大衆化に大きく貢献した最初のアーティストだとも言えそうだ。当時、中村紘子のピアノをきっかけにクラシックに親しんだ人の数はどれほどいるのだろう。子どもにピアノを習わせようと思い立った母親の数もきっと半端ではないはずだ。私自身、1976年のリサイタル体験は、熱烈なピアノファンとして今に至る過程の中で、忘れられない想い出の一つとなっている。
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