中村紘子を語る上で忘れてならないキーワードが「執筆活動」だ。1974年に芥川賞作家、庄司薫と結婚した影響もあるのだろうか、自らも執筆活動を開始したその腕前はピアノと同じように素晴らしく、著書『チャイコフスキー・コンクール』は1989年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、第2作『ピアニストという蛮族がいる』も文芸春秋読者賞を受賞するなど、ノンフィクション作家・エッセイストとして高く評価されている。
知性と教養、そして豊富な経験を背景にしたチャーミングな文章は、一般の人々をクラシックの世界へと誘う大きな道標となったに違いない。『アルゼンチンまでもぐりたい』『どこか古典派(クラシック)』『コンクールでお会いしましょう・・・名演に飽きた時代の原点』など、ウィットの効いた文章は、今読んでも新鮮そのものだ。
国内外の若手ピアニストを育成
そして、中村紘子を語る最後のキーワードは「教育」だ。1980年代以降、世界各地のコンクールの審査員を務めるとともに、広く国内外の若手ピアニストの育成・紹介に力を注いだ中村紘子は、文字通りピアノ界の頂点に立つ存在となる。審査員としては、1982年の「チャイコフスキー国際コンクール」の審査員を務めて以来、「ショパン国際ピアノコンクール」「ロン=ティボー国際コンクール」「ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」「リーズ国際ピアノコンクール」など、世界有数のコンクールの審査員を歴任した。
その貴重な経験は、国内コンクールの発展にも生かされ、1994年の第3回から15年間にわたって審査委員長を務めた「浜松国際ピアノコンクール」は、創立10年足らずで「国際コンクール連盟」に加盟。毎回優秀な若手ピアニストを世に送り出す実績によって、今や世界有数のコンクールのひとつに数えられるまでに成長している。さらには、個人的にレッスンや指導を受けたピアニストの数は、数え切れないほどだろう。
1959年のデビュー以来、これまでに国内外で3800回以上のコンサートに出演してきた中村紘子。病と闘いながら、死の直前までピアニストとしての活動にこだわり続けたというその人生は、まさに“音楽の伝道師”と呼ぶにふさわしい。中村紘子の死によって、輝かしい1つの時代が幕を閉じたことは否めない。しかし、彼女が切り開いた道の先には、今や確実に新たな光が灯り始めている。
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