日本人が信じてやまない「法治主義」の死角

「舛添問題」は哲学的に見てきわめて興味深い

そして、まさにここから、舛添さん自身思いもよらない方向にメラメラと「不満」は燃え上がり……気がついてみたら手がつけられない状態に至ってしまった。私的流用の一部を返金すると言っても、知事の給与を削減すると提案しても、せめてリオ五輪まで待ってくれと訴えても、すべて聞き入れられなかった。即刻辞職しか、残されていなかったのです。

この流れは、哲学的に見てきわめて興味深いものがあります。舛添さんが事態を収拾しようと「違法ではない」という公式見解を得たのに、その口先だけのきれいごと、ひどいごまかしに、みな腹が立った。舛添さんの「常識」はガラガラ崩れていったのです。納得しない若者の肩を抱いて「世間とはそういうものだよ」とじゅんじゅんとお説教する「大人」のうす汚さにそれまで従っていた若者が、がぜん反旗を翻したのです。

ここには、カントやニーチェが厳しく批判した法治国家の欺瞞的性格、その「正義」という嘘くさい理念が一挙に噴き出した感じです。つまり、法の支配とは、権力(暴力)を野放しにすることによる恐ろしさから身を守ることにまず狙いを定めているのであって、これをそのまま理想状況だと考えるのは愚かなことなのです。

東大法学部出の秀才だからこそ

私も法学部の「刑法総論」の最初に、同分野の権威である平野龍一先生から「100人の真犯人を逃しても、1人の冤罪を防げればいい」という近代刑法の理想を学びました。被告人Aに自白しか証拠がない場合、あらゆる状況から考えてAが真犯人らしいとしても、「法律上は」有罪としない、というだけのことであり、裁判所はこれによって「絶対的真実」を宣言しているわけではありません。

カント的に言えば、法律は真実より重要なものを守っているのであり、それは人権であり、公平であり、法的安定性です。これこそリーガルマインドであって、法学部での秀才たちはこの精神を学んで、行政に司法に、そして立法にも散らばっていく。

というわけで、東大法学部出の秀才だからこそ、舛添さんは法に真実を求める「初歩的ミス」を犯す素人たちがおかしくてならなかったのでしょう。「不適切だが、違法ではない」というお墨付きにより、一件落着、あとはいくらでも誠意を示し頭を下げて回れば、知事の職は安泰だと高を括っていたのでしょう。それが崩れたのですから、今回の事件はなかなか哲学的に考察の価値があるということです。

どうも慣れないテーマを扱うとうまく長さを配分できないもどかしさを感じますが、今回はここで終えます。再確認しておくと、私はとくに舛添さんを批判するつもりはない。そして彼は、――あえて比較をすれば、フランス革命のときにパンがないと騒いでいる庶民の気持ちがまったくわからなかったマリー・アントワネットのように、――いまなお、なぜこういうことになったのかよくわからないのではないかと思われる。

もちろん、私は、この事件に対するジャーナリズムや「一般庶民」の態度や発言に対して、いささかも肩を持とうとは思わず、むしろそこにも舛添さんに引けを取らないほど非哲学的なうす汚れた空気が漂っている、と言いたい。そのテーマも、次回以降に語りたいと思います。

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