真田幸村、「作られた英雄像」の真相に迫る 人に話すと赤っ恥?「あの活躍」も創作だった
今回も、真田幸村についてよく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
家康をあと一歩まで追い詰めた
Q1. 真田幸村ってどんな人ですか?
信濃(長野県)の豪族で、武田信玄の家臣だった真田昌幸の次男です。実は記録が少なく、生まれた年すら複数の説があるくらいわからないことも多いのですが、はっきりしているのは以下のような事実です。
・1585年:人質として上杉家へ。その後、豊臣家に仕える
・1590年:豊臣秀吉の小田原攻めに参加し初陣か
・1600年:関ヶ原の戦い。父昌幸と西軍に加わり信州上田城で東軍を撃退。しかし西軍は敗れ、高野山(和歌山県)に流される
・1614~15年:大坂冬の陣に豊臣秀頼方の武将として参加し活躍。大坂夏の陣で敗北、壮絶な死を遂げる
Q2.そもそも「真田幸村」は本名ではありませんよね?
そうです、「信繁(のぶしげ)」が成人後の正しい名前です。彼が生きていた時代の記録や史料を見る限り、「幸村」の名は見当たりません。最晩年に親族にあてた手紙にも「信繁」とあることから、現在では「真田幸村」ではなく「真田信繁」が一般的名称として使われるようになりました。
Q3.では、なぜ「幸村」の名前が広まったのですか?
「幸村」という名前は、彼の死後1672年に出版された小説『難波戦記』などの影響が大きかったといえます。大坂の陣における彼の勇ましい活躍が描かれたこの物語の中で、彼はなぜか「信繁」でなく「幸村」の名で登場したことから、「真田幸村」の名が広まることになりました。
その後、物語は講談などでも人気を博し、彼はやがて「幸村」として定着、現在でも「幸村」の名前が、ごく最近まで映画やドラマ、小説などで普通に使われていました。
Q4. 武将として、どんな活躍をしたのですか?
いちばん有名なのは、豊臣と徳川の最後の決戦となった「大坂の陣」での活躍でしょう。大坂冬の陣では、彼が大坂城の弱点に築いたという「真田丸」で徳川勢の猛攻を撃退し、この戦いを引き分けに持ち込みます。
翌年の大坂夏の陣では、冬の陣の講和(引き分け)によって「真田丸」はおろか、防衛の要である堀がほとんど埋められ、あとがない豊臣方は積極的に攻撃を仕掛けます。幸村も、ここで勇猛果敢な働きをしました。
Q5. 大坂夏の陣で、家康をあと一歩まで追い詰めたのは本当ですか?
本当です。天下をとった家康も、生涯に何度か絶体絶命の危機を経験しています。大坂夏の陣では、最後は敵味方入り乱れる大混戦となり、幸村は幾重もの敵陣を突破し、ついに「家康本陣」まで到達。「あと一歩で家康の首を取る」ところまで迫る大活躍を見せたといわれています。家康はほうほうの体でなんとか脱出するという失態を演じました。
しかし、すでに多くの兵を失っていた幸村は、駆けつけた家康の援軍の前に力尽き、壮絶な最期を遂げます。
Q6.では、やはりスゴい武将だったのでは?
確かに家康を窮地に追い込む幸村の活躍は見事でした。それは彼が「真田家」という戦国時代を代表する兵法家の家系に生まれ育ったことや、人質という身分ながらも上杉や豊臣といった名家で一時期を過ごした経験から、優れた武将としての素養がついたものと想像できます。
しかし、彼の半生をあらためて見てみると、これまでの「幸村像」とは異なる「真実の姿」がある気がします。「作られた英雄像」はここからが本題です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら