真田幸村、「作られた英雄像」の真相に迫る 人に話すと赤っ恥?「あの活躍」も創作だった
冒頭で述べたとおり、「大坂の陣」を除く彼の目立った戦歴は、織田信長や武田信玄など戦国時代の名だたる武将に比べれば、圧倒的に劣ります。いわゆる「歴戦の勇者」と呼ぶにはいささかこころもとないのが実情です。
幸村のスゴさが見当たらない
Q7. 「大坂の陣」以前には、目立った活躍はしていないのですか?
たとえば、秀吉の「小田原征伐」(1590年)に父、兄と参加し、これが幸村の初陣とされています。しかし、実際彼がどのように戦いに参加したのか、詳細は実はよくわかっていません。
その後、秀吉が朝鮮に攻め込んだ「文禄・慶長の役」(1592~93年、1597~98年)にも参加を命じられましたが、渡海はせず、次の確実な戦歴は、あの有名な関ヶ原に向かう徳川軍を足止めしたとされる「第二次上田合戦」(1600年)で、その後が大坂の陣(1614~15年)となります。近年、彼の初陣を「第一次上田合戦」(1585年)とみる説もあるものの、こちらも詳細についてはよくわかっていません。
Q8. 「関ヶ原の戦い」での東軍足止めは大活躍では?
確かに、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍(豊臣方)への参加を決めた真田幸村と父昌幸は、居城である信州上田城にて中山道を西上してきた東軍(徳川方)の別働隊を迎え撃ちます。別働隊を率いた徳川秀忠(家康の息子)は、この時真田との戦いに手間取り、関ヶ原の戦いに遅参して家康の逆鱗に触れたといわれています。
ただ、このエピソードは「軍記物の記述」によるものです。実際は秀忠の目的は上田城の攻略で、攻略途中での関ヶ原への転進も家康からの命令だったという研究もあります。いずれにせよ、「幸村の手柄」と断定していいのかは微妙です。
Q9. でも、大坂冬の陣で大活躍した「真田丸」は、幸村が作ったのですよね?
確かに造営にあたり、最終的なデザインに幸村が深く関わることで武田時代から培われた「真田の独創的アイデア」が盛り込まれたのは事実でしょう。大坂冬の陣では、ほかの砦がすべて陥落したにもかかわらず、この「真田丸」だけは唯一、徳川軍の猛攻にも最後まで持ちこたえました。
しかし、真田丸が「幸村の提案」だという証拠はありません。「大坂の陣」を前にして、大坂城の防衛を目的とした豊臣方の「砦」は、城の周囲にいくつも築かれました。「真田丸」も、これらの一環として当初より造営が予定されていたと見るのが自然でしょう。
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