哲学的真理は、むしろ「芸術的卓越性」に近く、鑑賞することによってではなく、具体的に制作することによって会得するほかはない。芸術作品を鑑賞するだけでもある種の能力は開花しますが、それは芸術評論家の目にすぎません。ゴッホの研究者はゴッホが絵画を「わかっている」ようにはわかっていない。ゴッホがその目で世界を見ているようには見ていないのであり、ゴッホがその「からだ」で生きているようには生きていない。
つくづく思いますが、ゴッホについて研鑽を積み、ゴッホの描いた絵画のすべてを正確に分析し、その生活のすべてを詳細にたどるという仕方でゴッホに「肉薄」すればするほど、彼はゴッホから遠ざかる。なぜなら、ゴッホは「みずから」表現したのであって、自分以外の他人をこういう仕方で研究するような人生を送ることはできないだろうから。それは彼にとって反吐が出るほどイヤな生き方だろうからです。
よって、カント研究に一生を捧げた世界的カント学者は、カント自身とは似ても似つかない。カント自身、「哲学者は理性の立法者である」と言っていますが、その通りであって、哲学者は理性の行政官、すなわち、何でも手際よく理解してしまう優れた官僚であってはならないのです。
哲学に「血税」を使う必要などない
ここあたりで、はじめのテーマにつなげますと、世間は哲学を忌み嫌いながら、「哲学研究者」という名目であれば哲学することを許してくれる。なぜなら、それは哲学ではなく科学だからであり、人類の知的遺産の管財人としてまあまあの世間的価値はあるからです。
よって、多くの若者は哲学を続けたいばかりに、大学の学部の哲学科、あるいはその大学院に進もうとする。というのも、それが哲学をする隠れ蓑として、世間が公認するほとんど唯一の場所だからです。しかし、その大学の哲学科さえ、文科省は次々につぶしにかかっているという現状です。
多くの哲学関係者はこの趨勢を嘆きますが、私はまったく構わない。大学からすっかり哲学科がなくなるのも考え物ですが、そこは原則的に哲学ではなく哲学研究をする場所、つまり知的遺産管財人の養成機関なのですから、東大や京大など旧帝国大学などの片隅にわずかな定員を確保して存続するだけでいい。あるいは、新聞編纂所のような哲学編纂所という(学生や講義なしの)専門研究機関として、あるいは考古学科の一分科として存続してもいいのではないかと思います。
では、哲学は「どこで」するのか? ここで「哲学塾」にうまくつながります。幕末の私塾のように、志のある哲学者が塾を開けばいいのです。そして、志のある若者(あるいは中年、老年)がそこで学べばいいのです。
哲学など何の役にも立たないのですから、それに血税を使うのはもったいない。もう1度言いますが、官立の大学は知的遺産管財人養成機関に衣替えするか、廃止するかを選択すべきでしょう。そして私立大学は、「哲学科」などという偽りの看板は取り下げ、「比較文学科」「人間学科」「コミュニケーション学科」「環境学科」といった安直な名称に切り変えて生き続けるか、それができなければ即刻廃止すべきでしょう。
こうして、少なくともわが国民が哲学の真の姿を認めて、その表面的な美名をひっぺがし、哲学はまったく役に立たず、自他の幸福を望むこととは無関係であり、反社会的で、危険で、不健全なもの、という点で認識が一致し、それにもかかわらず哲学をしなければ死んでしまう全人口の1パーセント未満の人のためにのみ哲学を学ぶ「真の場所」を設置すること。これはまことに健全なことだと思いますが、いかがでしょうか?
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