デキない男は「色気の本質」を履き違えている 普段着の言葉に「感脳性」が宿っているか
セクシュアルであることにおいて、知性はむしろ邪魔になるのかもしれません。現実的には、セクシュアルには「痴性」の方が符合するでしょう。セックスは種の保存という目的性をまっとうする行為であり、その目的性は直接的な快楽によって牽引されるのです。
知性に邪魔されることなく、獣のように生涯をセクシーさ(肉体的かつ欲情的魅力)だけで貫徹すること、天に愛されたヴィーナスのように自然に身を挺すること、そして誰とでも欲の赴くままに交わることが、そのまま、美への道程である……。そんな考え方もあっていいかもしれませんが、しかし、そんな人って、実際にいるのでしょうか?
人が人であるという器量において、私たちはそんなに奔放にはなれないのです。そんな夢を見たらあきまへん、お気張りやす。知性と努力は天からの賜り物にも勝るんでっせ!
「官能的」というよりむしろ「感脳的」
さて、センシュアル。日本語の一般的な訳語は「官能的」ですが、むしろ「感脳的」が近いと私は思います。セックスを思ってもいけないとか野暮は申しません。でも、セックスは一義的な目的ではないのです。相手と自分の関係性から感じる“美しさ”や“心地よさ”といったもの。そういったものを追い求めていく感性だといえます。
身ごなしの美しさに自分を律する意味で、「躾(しつけ)」という日本にしかない言葉も降りてきました。これは江戸の意気や上方の粋(すい)に重なっていきます。
だから、神仏に仕える身であってもセンシュアルであることは何もおかしくありません。そういった方々が人々の悲しみに共感できる心性をもつことの大切さを思えば、むしろセンシュアルであるべきとも言えるのです。一方で、聖職とセクシュアルは倒錯的な破格の妖しい美を感じますね。
とはいえ、センシュアルとセクシュアルは、それぞれにまったく別の概念というわけではなく、連関しております。センシュアルの中にセクシュアルは内包されうるし、逆もまた真なりです。
こういった設問はどうでしょう。日本が誇る古典『源氏物語』には多くの個性的で魅力的な女性が登場します。ではその中で、誰がもっともセンシュアルだと思われますか?
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