しかし、民意の影響力が増すと政治がよくなるかは別問題で、むしろ分裂して弱体化した体制内の一部勢力が、権勢挽回の道具として在野の「愛国無罪」を焚きつけると、よりややこしい話になることも多い。
昭和初期、浜口雄幸内閣のロンドン海軍軍縮条約批准が批判された統帥権干犯問題(1930年)も、岡田啓介内閣下で持ち上がった天皇機関説問題(1935年)も、当時野党に転落していた政友会が政権攻撃の口実として「陛下」の権威を担ぎ出したものだった。
討議の成熟度や他者への寛容さの低い国で、いたずらに民主化を進めれば、単なる「自分の主張」を「みんなの民意」だと言い張って、異見の持ち主に服従を迫る輩がでてくるのは当然だ。
そのとき、戦前の日本であれば天皇の看板を「君側にすらいない奸」が利用したのだが、いまの中国では君主制がないからどうするのかと思ってみていたら、なんと毛沢東が墓場から出てきたというのが、今回の顚末かもしれない。
実際、日本主義を掲げて「不敬」認定した言論人を攻撃した蓑田胸喜の原理日本社が、毛主席語録を手に「修正主義者」を糾弾した文革期の紅衛兵と相似形をなすことは、植村和秀『昭和の思想』の説くところである。
世界標準への背伸びが貧農層の反動招く?
戦前の日本でも、今日の中国でも、社会の不安定要因となったのは急速に成長する都市部と貧困なままに留まる農村部の格差だろう。
浜口内閣への攻撃を支えた心理に、金解禁に代表される「グローバル化」政策をとった民政党政権への不満もあったとすれば、ますますもって目下の中国を思わせる。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら