それだけではなかった。信者の人たちがみな生き生きと働いている。箒(ほうき)で掃き、ぞうきんをかけ、境内は塵一つ落ちていない。
「思わず本殿の前で頭を下げる。自然にそうなるような雰囲気やったな」。その人の案内で境内を歩いていると、建築中の教祖殿があった。そこでも多数の信者たちが無料奉仕で働いている。みんな汗を流し、懸命にそれぞれの仕事に取り組んでいる。
製材所が不要になることはない
その人は、最後に製材所を案内してくれた。その製材所も仮の製材所ではない。広大な敷地に立派な機械を設置して、百人もいようかという人びとが作業している。毎日毎日、たくさんの人がそれだけの製材に従事していれば、やがて建物が完成して、製材所も要らぬようになるだろう。
そのようなことを案内してくれた人に尋ねたら、「松下さん、そんな心配はいりません。いま建築している建物が済んでも、次から次へと建物が必要になります。そういう建物を建てるために、この製材所が不要になるというようなことはありません」と言われたという。
こうして一日、その宗教の本部を案内してもらった松下は、そうとうな衝撃を受けた。
「帰りの電車の中で、昨日まで悩み続けていたことを合わせ考えて、なんという違いだろうと思った。わしの頭の中では、どうして宗教はあのように盛大と言えば盛大、かくも力強く盛んな様相を呈しているのか。そういうことがぐるぐると巡るわけや」
人間には心の教えが大切だから、それを大事にするというのはわかる。しかしひるがえって、物も大事だと言えるのではないのか。心の面でも救われるが、物の面でも豊かさを得てこそ、はじめて人間は幸福になることができる。であるとするならば、物をあつかう商売もまた、社会的に大いに評価されていいはずだ。人間を救うという意味からすると、宗教も商売も同じ次元のもののはずだ。
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