さて。東洋経済オンラインから「貧困男性当事者についての記事を連載してほしい」という打診メールをいただいたのに、即日で「嫌です」と反射的に断ったのは、たかだかフリーランスのルポライター風情としてはありえない選択だった。圧倒的なPV数を誇るこの媒体での連載は、記者としてはノドから手が出る仕事。
それでも「貧困の当事者をコンテンツ化することは、もうやってはならない」「当事者の見せ物報道にはウンザリ」「あらためて現状の貧困問題についての提言記事ならばやらせていただく」と、大上段構えの返答をしてしまった。
幸い中の幸いにも「ならばその提言記事をお願いします」と言ってもらえたのでこうして書けてはいるが、残念ながらこれは昨今、けっこうな閲覧数を稼ぐ貧困当事者のルポ記事ではない。
本当にもう、うんざりなのだ。
僕自身がもう10年以上、子供や若者や女性の貧困をルポしてきた当事者報道の急先鋒でありながら、そして日本にある貧困問題を「可視化」すべきだと強く訴え続けてきたくせに、昨今の貧困の当事者報道には、ほとほと嫌気がさしている。
メディアは貧困者を選別して報道してきた
うんざりの理由はいくつもあるが、たとえばそのひとつは「メディアが報道する貧困者の選別加減」である。この点で貧困報道ではマスメディアはずいぶん前から大きな失敗をいくつも犯してきている。
たとえばリーマンショック、派遣切り、ネットカフェ難民、年越しホームレス問題などで浮上した、ホームレスからワーキングプアまでさまざまな貧困者の報道で、どんな当事者がピックアップされていたかを思い出してほしい。
自戒を込めて思い出せば、忘れもしない僕自身、その当時、取引先の出版社の編集部から取材をしてほしいと言われたのは、「昨日まで一般的な社会生活を送れていた人々」で、「思わぬキッカケで貧困に陥ってしまった人々」だった。具体的に言えば、昨日まで普通に幸せに生きてたサラリーマンで、今日はホームレスになって炊き出しに並んでいるお父さんだ。失職を契機に妻子を失ったりしているとさらに御涙ちょうだいでよろしい。
だがどうだろう。そのコンテンツの意図はこうだ。第一に、読者視聴者のあなた方もいつか貧困に陥るかもしれないという脅し、こうしたコンテンツは視聴者読者の引きが強い。その理由は単純で、テレビ朝日のキラーコンテンツ“本当は怖い家庭の医学”をはじめとする多くの健康バラエティが一定の視聴率を取るのと同様に、人は自分の身に降りかかるかもしれないリスクの情報には、本能的に注目するからだ。
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