さらにこうした定型の貧困コンテンツでは、その当事者がなぜ貧困に陥ったかのプロセスを描く。これがいわば病気の「セルフチェックシート」に近いもので、提示された身近な危機に実際に自分が陥るのかどうか、陥らないためには何をすればいいのかが描かれる。
そして、こうしたコンテンツに飛びついた読者視聴者たちは、「あたしヤバいかもしれないから対策しないと」もしくは「俺はまだ大丈夫だわ」となるわけだ。が、はたしてこれは貧困報道として、購読数・視聴数を稼ぐ以外の何の意味があるのか?
それは単にエンターテインメントのひとつであって、貧困にいる人々の救済には何の役にも立ってこなかったどころか、大きな弊害すら生んできたように思えてならないのだ。
はたして「貧困=自己責任」なのか?
こうした紋切型の貧困啓蒙(警戒)コンテンツには、いくつもの問題がある。たとえば貧困者がそこに陥ったプロセスを描く中で、「ここでこの人は○○をしてこなかった結果、貧困になった」という場合、この○○をしなかった当事者に、貧困に陥った「自己責任」があるとも取られる。
だが実際はそうではない。少なくとも僕が取材してきた貧困者とは、いくつか自発的なリスク回避をしたぐらいで「貧困に陥らずに済む」ほど、軽い事情の持ち主たちではなかった。本人の資質や周囲の環境がからみあって、縁も運も何もかも尽き果てて、もうやむをえず、あがいても何をしてもはまり込んでしまって抜け出せないのが、貧困だ。そう感じてきた。
だが、多くの報道からはそうした複雑なバックグラウンドが抜け落ち、短い尺の番組や記事の中で、単に「非貧困者」のための予防情報を提供するだけだった。
一方で、「昨日まで普通のお父さん」的な読者視聴者に近いライフストーリーを過去に持つ貧困者を意図的に選択・報道することには、もうひとつ大きな問題がある。
たとえばあの年越派遣村報道の際には、公園の炊き出しに並ぶ多くの野宿者の中から、20代や30代といった若年ホームレスをピックアップして取材する姿が目立った。行列の中から彼だけをピックアップする姿に、吐き気を催した。公園で取材を受けていた「彼」以外の行列を成す野宿者が、見事に背景扱いだったからだ。
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