時代の実況者、古舘伊知郎が走りぬけた12年

政策を批判することは「偏向報道」ではない

古舘の最後の現場レポートは、ドイツのワイマールからだった。世界で最も民主的といわれた憲法の中の国家緊急権という一条項が結果的にナチス独裁に道を開いてしまった史実を伝え、自民党の憲法改正案にある緊急事態条項が持つ危うさを指摘した特集の最後に、「とにかく立ち止まってじっくり議論することが重要ではないかという思いでこの特集を組みました」。

「偏り」についての投げかけは問題提起だった

見返してみて改めて思う。古舘のコメントは自分の意見を前面に出すというより、あくまで議論や熟慮を求めるものだった。逆にいうと、このような当たり前なことを言うために「窮屈さ」を感じたり、「ぶれちゃいけない」と踏んばったりしなくてはならない現状自体について、私たちは今、猛烈に考えなくてはならないのではないだろうか。そう考えた時、古舘の「偏り」についての投げかけは、今の状況に対する大きな問題提起だった。

「人間がやっているんです。人間は少なからず偏っています。だから情熱をもって番組を創れば、多少は番組は偏るんです。しかし、全体的にほどよいバランスに仕上げ直せば、そこに腐心していけばいいのではないかと、私は信念をもっています」

古舘があえて最後にこれを言わなくてはならなかった背景には、キャスターが自分の意見を言うことを「偏っている」とする、このところの奇妙な風潮が、猛烈な古舘批判に繋がっていたからだろう。テレビ局に寄せられた古舘についてのコメントやネットの中の議論を見てみると、当然のことながら、自分の意見が古舘と同じ人は彼を賞賛し、違う人は「古舘は偏っている」と非難する。つまり、キャスターの「偏り」を判断する根拠は、多くの場合、自分の視点が中立だという前提なのだ。

問題は安倍政権がテレビ局に対して「偏向」と文句をつける基準も、自分と違う意見は「偏っている」というネット世論のレベルと大して違いがないことだ。そしてさらに問題なのは、この政府の幼稚な圧力やネットの炎上を恐れて、報道機関が協力しあって筋の通った反論をするでもなく、空気を読んで自己規制に陥り始めていることだろう。自分の考えを言うことは、放送法以前に憲法で「言論出版その他一切の表現の自由」として保障されている。個人の視点なき言論は有り得ない。本来、人間が10人いれば10の視点があるということが前提のはずだ。

アメリカではチャンネル数が少なかった時代にテレビ局に課されていた「公平原則」が1980年代に撤廃された。さまざまな立場の発信が担保できる多チャンネル時代に入っていくなかで、「公平原則」はむしろ言論の自由を侵害するとの考え方からだ。論点のあるテーマにおいては、視聴者自身が公平性を判断するための多様な情報を提供することが重要だと考えられている。日本としてどう考えるかは議論の余地はあるとしても、テレビの外の場外乱闘も激しくなっている時代、「中立」という言葉が多様な視点を撚り合わせていくための議論を阻むものであってはならないだろう。

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