「大切な人の死」に直面したら、するべきこと 知っておきたいグリーフ(悲嘆)ケアの具体例
我慢しない。頑張らない。泣くことを恥ずかしいことと思わない。夫を亡くした妻が、自分が悲しむと子供たちがもっと辛いだろうと泣くことを我慢していたため、グリーフが長く抑圧され、後にうつ病に陥ったという例もある。
自分は幸せになる資格などない、と思うこともある。でもコントロールできないこともあることを認めてもいいのだ。そのままでいいよ、大丈夫だよ、と自分に声かけしてあげる。
身近な人のグリーフに対しては
グリーフとは乗り越え、克服し、終わるものではない。自身の内に包み込み、受け入れ、共に歩むものなのだ。では、悲しみと向かい合っている人にどう寄り添えばいいのだろう。
つまりその人の存在をそのまま認める、ということ。もし話の途中で黙ってしまったら、その沈黙も大切にする。支える人には沈黙の中に共に居続けることが求められる。その人全部を尊重することが大切。
「いつまでも泣いていては、あの人も落ち着かないよ」などと声をかけることは、自分が落ち着かないから「いつまでも泣かれるのが辛い」思いの裏返し。「元気出そうよ」「頑張ろうね」との声かけも、本人は「メソメソしている私が鬱陶しいのね」と敏感に捉える。悲嘆の中にいる人の感情をそのまま受け止めることはとても難しいもの。だからこそ押し付けない姿勢が求められる。
「私も昨年、夫を亡くしたから、あなたの気持ち、すごく分かる」との声かけは、一見寄り添っているように聞こえる。しかし悲しみの形は人それぞれ違う。「良く分かる」との言葉は時にとても薄っぺらに聞こえる。「そう簡単に分かってもらいたくない」との思いを相手に抱かせることにもなりかねない。
助けてあげよう、何かしてあげようとの思い込みは禁物。悲しみのさなかにいる人のそばに、共に居させていただく、という姿勢があればいい。一人じゃないよ、の気持ちを伝える。
「なぜ、今、死ななければならないのか」
この問いに対し、私たちがこれまで獲得してきた知識や経験では答えを見出すことができない。この不条理に私たちは人間の限界を感じざるを得ない。しかし、かけがえのない人の死を受け入れることが出来たとき、私たちは「このことを、私自身の生と照らし合わせて」考え始める自分に気づくのだ。死を考えることは、いかに生きるかを考えること。グリーフを受け入れることを通じて、私たちは新しい自己と出会うのである。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら