「天草エアライン」が、たった1機で起こす旋風 理想的な中小企業の姿がここにある
ただし、ここに至る道は容易ではなかった。かつての天草エアラインは赤字続きで一時は債務超過寸前にまで追い詰められたことがある。その低空飛行が続いていたら地元自治体の支援は得られなかっただろう。新型機の導入どころか、会社存続さえおぼつかなかったかもしれなかった。
天草エアラインはその苦境をどのように脱し、地域に欠かせない存在になれたのか。その一部は東洋経済オンラインでも2014年5月に「"空飛ぶ三陸鉄道"天草エアラインの変革力」という記事でも取り上げたが、機材更新という節目を迎えた今、改めて整理したい。
天草エアラインは2000年の新規就航からほどなくは、物珍しさに加えて、当時建設中だった九州電力苓北発電所の火力発電2号機の工事関係者などのビジネス需要が追い風となり、創立1年目の福岡-天草線は6万7868人の乗客を集め、平均搭乗率も80%を超えるなど幸先の良いスタートを切った。
ところが、就航3年目の2003年以降は景気の悪化や発電所の完成に伴うビジネス需要の低迷にゆさぶられ、搭乗率は60%を割る水準まで低迷する。搭乗率が下がると共に、赤字が大きく拡大したことで、2003年に3億円近くあった現預金残高は2007年に6000万円程度まで減っていた。新規の銀行借り入れも難しい状況で、2007年の熊本県による監査においても「天草エアラインの財政状態は債務超過寸前に陥っている」と総括され、2009年から熊本県による整備費の補助が始まり、何とか債務超過を免れる。
社長自らが「マルチタスク」を率先
この時期に天草エアラインの社長に就任したのがJALの整備部門出身の奥島透氏。この奥島氏による改革が、天草エアラインを変えた。
奥島氏は社長就任早々に社長室の壁を取っ払っただけでなく、到着したばかりの飛行機に乗り込み、座席のヘッドカバーを直したり、機内清掃を手伝ったりなど、みずから動くことで社員からの信頼を勝ち得た。
担当業務を主にしながらも、余裕があれば手薄になっているほかの業務を手伝って業務全体の効率を上げる「マルチタスク」を社長みずからが率先し、社員に浸透させていった。機材が1機しかない天草エアラインでは便の出発・到着時に人が手薄になることから、総務や営業などの管理部門、更に社長や専務といった役員がサポートすることで、人が足りない時でも業務を滞らせないことを可能にしたのだ。
同時に社長が社員と同じ業務をすることにより、社長も現場の気持ちがわかるようになり、業務上での課題を互いに共有することで問題解決のプロセスも迅速化された。2013年に機体デザインの刷新で親子イルカの塗装に生まれ変わってからは、毎月1回、社員全員で朝の始発便が出発する前に機体を丸ごと水洗いする、機体洗浄をするようになった。これで会社全体に一体感が生まれた。天草エアラインは自治体から一部補助を受けつつも、2009年から単年度黒字に転換し、黒字を維持し続けている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら